ikeaのカタログ/こういう

最近生活必需品と食べ物しか買ってないが(そう決めた)、ikeaのカタログが家に届いておりぱらぱらと
眺めてみる。(と、同時に、数日前から「都市という廃墟」に言及したいという欲求がある。
これも考えてみればオウム事件以前に読んだ本であり、文庫版のあとがきが養老孟司だというのは
本当に示唆的なことなんじゃないかと。そのあとがきで「日本人はこの本を読もうとしない」と書いて
ある事の違和感は以前書いた。なんだか「見ようとしない」ものを暴力的に措定したのではないかと。
その上でカルトの潜勢力なり資金源としての働きを過度に強調したのが、ある時期以降の文化生産のベースに
なっている感覚なんじゃないかと。そこで行われてる「80年代の反復」みたいなものはすごく滑稽に思えるし、
それで流通してる本がどれだけ読まれてるのか全く分からない。その下で、いろんなタイプの感覚に対する
暴力に苦しんでいる人は居る)。
 例えば、糸井重里の「小さなことばを歌う場所」という本は、何かまるで「建築はほほえむ」の換骨奪胎
のような、そっくりな感じに見える(この本の副題は、「目地継ぎ目小さき場」というのだが、コピーとしては最後のワンフレーズを拡張して言い換えてるだけじゃないかと)。というよりある時期以降のベストセラーが、量産のための量産を形式
的に行ってるだけで、殆ど90年代前半までに出た本のタイトルやつくりをパクっているように見える。
ただ抑圧されてる側は、もし諜報まがいの盗用や「音声送信」が本当に可能で人体実験されるのならそれ相応の傷を負うのだし、
単なるローテクな盗用でもすごい不快な思いをしなきゃならないのだ、と思うと、やっぱりそういう現象
全般に対する、ある程度のガードが必要なのだと思える。
そのガードは新奇さとは違った、何か新しいものであり、結局のところ
それを通じて人の感覚が(科学者が総花的に感覚を解き明かす、などと
いう荒唐無稽な話から)守られるようなものでなければいけない。が、
単にお休みの日にカタログ見てると、それはもうそんな時間だけで
胸がいっぱいになるくらい、ありふれたものなんだという気もする。
           ♪
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/120811/waf12081107010000-n1.htm

「呪い」もそうなのだが。
・・・なんかこういうの、人間のクズだよね〜と思いつつ、私には糸井重里とかその他の80年代文化人みたいな
ものがこういうのとあんまり変わりないタカリの構図のもとに「ものつくり」してるようにしか思えない。
ほんとのものつくりってそんな窃盗じみた構図の上に乗ってない気がするのだが(相手を貶めるか脅かすような)。
 数名の業界人は絶対に刑事告発しか考えられず、こういう感覚になりはしないとは言え外堀から経済格差を押し当ててきた
糸井重里の、「どこがどうパクリ」かはたぶん私が一番よく指摘できると思う。(利便性からリデザインするとか
そういうことと全く関係なく、ひたすら性質が悪いのだ。貶めようとする意図で外堀を埋める感じというか)。
             ♪
人はその本を読もうとしない、と書く事によって、単に外在を全部「バカの居場所」として編纂しなおしたかったんじゃないかと。その上で80年代の
反復みたいな論旨を量産するのがバブルっぽく、結局「昭和軽薄体」で
検索する人が多いのもそういう理由からの気がする。
              ♪
という事を思ってたら魔法のじゅうたんみたいなものが届いたため^^、

思わず以前頂いたものと一緒にしてみる

中東戦争で心身不安定になると、こういう手作業のペルシャじゅうたんは
織りまつがいが出るという話が。そんな状況じゃ当然生産性が落ちるよね
と。
 魔法のじゅうたんはギリシャのもの。とてもきれい。
 デフレと全然違う意味で、伝統工芸品や手工芸品が安くなるのは(アランセーター
もそうだと知ったのは勉強になった。行きがかり上色々と自分でリサーチして勉強しただけの事だが)、色々と考えさせられる。でももし被災して
しまったりしたら、やっぱりちょっとは自然のものと手工芸品が介在したほうが疲れ
がとれると思う。
             ♪
人間昆虫と違って神経系が単純には出来てないんで、入出力の経路が
ちゃんと言葉でコントロールされてるあり方が常態という事を何となく
思いつつ。「でも、ヒトで昆虫採集したいんだ」という人が文学や
科学を騙る必要は皆無に思えるんだが。

必要があって仕事でikeaに行ってもカタログがないと大混乱という事を
学習したためとっておく。