一元化出来ない情動

がある、という事を感じるか書き下そうとしているという以外、おかしい事もなく健康で宗派性にも結ばれてない、というのはめずらしい事ではないのだろうという気分に。
だとしてもなぜ情動が多重化してシンプルに気分よく流れるはずの空間性のクリアランスを取りにくくするのか。
宗教や器官情動を問う科学のように、幾らでも固着したり専横され得るものがその謎に取り組むのではなく、単に日常性の中で考えるべきなのじゃないかと。

                 ♪
電車に乗りながら、私全然嘘つきじゃないし、神経工学についても私見をしっかり述べてるし盗用の被害も本当なので、
億ちょうだいよ億億と思う。億は要らないが普通に本読む時の精神の自由を保障した上で、もういい加減「昭和軽薄体」
とかどうでもいいんじゃないか。心身が置かれうる状態に対してまともに情報が表に出ず(かといって陰謀論者のようになってはいけない訳だが)、申し合わせたように数名のどうでもいい人たちのどうでもいいエッセーだけが(人権侵害と盗用を含みながら)空回りしてるのは異様過ぎるという気がする。

内田樹先生の盗用は本人に異議申し立てをした方が居るようで、元々の思想のスペックがそれであり、潜在的な被害者はもっと沢山居るわけだねと思う。(分かりやすい所だとこの日記のタイトルは「メディアの病跡学」だったが、「メディアの病」と流用されたし他幾つも転用されて迷惑だったのだが)。今更ながら何故80年代のエッセーだの週刊紙ネタ程度の話を数名で強迫反復してる程度のものに原稿料が出てるのか、見とがめられないのか全く謎であり、巨悪があるというより惰性でそうなのだろうが下衆な人という気がする。