差延や差異

について、電車のなかで今更のように考える。要はそれを捏造も買収もする事の出来ない素材として据えない限り、意味なんてないんじゃないかと。
自己同一性からはなれる為の概念だとして、そういうもんを消費材として入手する事は出来ず(出来なくないかも知れないけど困難であり)、その事を取り違えてると差異化を巡って見え透いた大ボラを吹くか(例えばある特定の国のナショナリティのみの至上化)、先に暴力的手段を有効に使った人間(国?)が常に他に負担を強いつつ経済的に潤うという事になる。そういうサイコな有徴化は、調子いい時は他人ごととして面白いのだが、当事者になると陳腐さも含めて色々ときついのじゃないか。(この場合当事者というのは、要は金を投じて自己有徴化に窮々としてる人に、距離を詰められたりパクられたりするという事)
極左」がほとんどそういう事しかしてないという事が分かったにしても、今ドゥルーズデリダ極左というモードに対して何を言っていたか凄く曖昧な事しか思い浮かばない。
                         ♪
エクリチュールにしろ作品(特異点の現われとしての)にしろ、何か結構地味(具体的で地道)なものでもあったような気がするのだ。極左(極右?)の資金繰りというものがもしあったらばそれに比べてということだが。そこにふっと感覚変容
と自己意識についての、何かリアルな出来事が落ちる、そういうことがあるような気がしている。そして相も変わらず
カフカのことを考える。