残暑

暑い。
何もないのにちょっと筋肉痛なのをどうにかしたいという気に。
         ♪
盗用の問題もそうなのだが、本来だったら糸井重里内田樹先生も
(元々の文脈を無視して概念をぱくってる茂木健一郎も)、コンサル
料を支払う必要がある位自分で何も作り出して居ないように思える。
単に市場独占みたいな事にしかウエイトがないのだとすれば、やっぱり
おかしい人なのではないかという気に。
そのあたりの事情を(符牒と固着みたいなものを超えて)しっかり説明
しようと思うと結構難しい。
中年から初老の男の、含蓄の無さみたいなものにうんざりするのだという
気がする。それだけで自己完結してればいいのだが、他人に習性を強いる
事の不快さ、みたいなものが。

仕事しつつ、パクりもそうなのだが状況を把握した上でまっとうに批判出来てるのであれば、文章が収入に結び付かないのはおかしいわと思う。というか糸井重里というコピーライターにせよ、茂木健一郎にせよ、本業より単にいかがわしい利殖で居座っているだけのように思えるのだが。

アンドルー・ワイルが霊性と呪いについて、そういうものが突拍子ないわけじゃない事を詳しく説明しているのを読み、別に健康法と呪いと二重底になっている論理を振りかざしてる訳じゃないね、と思う。極左的健康法のいかがわしさ(病理)って結局その二重底がご都合主義に運用されてるという事なのだが、それを他人の心身を脅かすために使った時点で発言権を封じて欲しい。
と思っても、医療行為ではないから罰せられない、ということなのだろうな、と。

心理的構成と身体的構成を別にとりあつかって、前者だけを強調すると(シンクロニシティとか神秘体験とか)異様な感じになるだろうし後者の機械的な動きだけ強調してもそれはそれで病的な気がする(したことないけどリストカット癖のある人とかはそういう機械的反復を通じてしか身体論的な感触に到達できないのだろうという気がする)。その心身論的素材だの脳科学(心脳問題)が生体をどう必要としているのか確認しないと、話がすっきりしない気に。簡単に言えば脳のなかの機械論的な反復を通じて何故心理的な印象が発生したり把持されるのか、という事を調べあげる向きがあるんだろうが、個々の人間は現象学的な出来事の内部でそこまで現実感を分解しないので、宗教や医療や名目だけの科学知が、断りもなくそれを行うべきじゃない気がする。