コーヒー断ち

というより、2杯程度にして数週間目。代わりにビタミンCを出来るだけ多めに摂る、
という形にすると7〜8杯飲んでいたのは確かに良くなかったと思えるので不思議。
ビタミン摂るとやっぱり多少は心身の調子が良くなるように思う。
          ♪
調子に乗って柄のところにギリシャの国旗のついているかわいいスプーンを購入。
(スプーン自体かわいくて好き)。
        
          ♪
自分なりに考えているしょうもなさの基準にあまりにも合致する「アーティスト」がうざい。
そういうので写真の内容を文章に被らせたりして来る精神的に危うい人が居る
のだが(みじめっぽい面白みしか感じない
、おかしい団塊とおかしい新人類(というより、未だに現代思想畑のうじうじ
した語彙で現実に言及しようとする人)、どうにか一掃出来ないものか、と思う。
そういう人たちが大挙して文化生産とかものつくりの利権みたいなものにたかって
る為、相当色々な事が割り切りにくくなっている気がするし(1983年位から97年位の
出来事でループするし、もうあと数年もしたらそういう現代思想的なものが立ち上げた
パースペクティヴとかエートスみたいなものも完全に崩壊するんじゃないかと思う)
他人の盗用を流通させる事がクリエイティヴだとなったら何も発想出来なくなっちゃう
気がするのだが。
…つらつら考えてみると、やっぱり「バカの壁」以降完璧に論理構成のおかしいものが
堰を切ったように売られてるなという気がし、大体養老孟司という人の文芸批評は何か
変なのという事を思い出す(「バカの壁」のずっと昔に、思い出せないが何かを読んで
て小説の文体ごとに設定されてる人物の心理的閾値みたいなものが憎くて憎くて仕方
ない人なんじゃないか、と思った事がある)。そうこうしてるうちに「具体」の展覧会が終わってしまい、ちょっと言及しただけで
食いついてきたらどうしようという感覚があったのだが、美術批評でも何でもまず着想出来ない人をしっかり干して2、30代のオーソドックスに発想してる人の邪魔をさせないようにするべきだと思うのだが。        ♪
駅前をちょこちょこ歩きつつ思いつきを色々とメモ。 ♪
メモとは関係ないにせよ叙情とか詩歌というカテゴリ(日本の文芸批評、結構そういうものをまともに分析してなかったか)にはやっぱり存在の意義がある。というか叙情を全部器官情動に還元する科学だの医学だの、勝手に情緒を掻き立てる身体論というものがあれば、おぞましいのだしそれが専横を決め込んで小説なら小説というジャンルの成立を軽視できるとすれば、ある種の大事な生物の断種に立ち会っているような苦しい気分になる。(虎とか希少な鳥とかの生存権にかかるような問題)