手元に

「差異と反復」があるため何となく読み出しつつ、このあたり
何となく通りがよくなっているのはやっぱりある種のレーベルが
概念を音に移し変えてるからなんだろうなという事を。レーベル
買いしたいけどちょっと考えてから。
          ♪
「うわさの遠近法」、誘惑に負けて(誘惑により)少し読むが素晴
らしい。都市論としてのデータの細かさが。細かいのでどこを切り取って読んでも充実感があって全く別の全体像みたいなものが浮かんでくる(こういうのはベンヤミンもそうだなぁと)何だかどういう思考
で何が抑圧されているのか一挙に考えさせられるような。(当面
松山巌都市論で全然OKのような)。
          ♪
エホバのパンフにショックを受けて、何か策を講じないと小冊子
とか真実を書かれた無駄にマッシヴな本とかの押し付けが始まる気がするのだが、
寄贈でも不要ですとか置いてくならお金下さいとも言いにくいし…
まじまじ見てパンフ何か田舎臭いという事を訥々と思う。
何がなんだろうか。レイアウトを真似るときになんかぐにゃっと
げろげろした素材感が混ざる気がして、それは仏教系カルトのパクり
と(宗派は違っても)雰囲気が同じ。→こっそり悪魔のサイン(?)を混ぜたりしてる事が判明。よくわからない。ほんと無神論なので、何か過剰な気がするのだが、違和感なく受け取れる宗教的感覚ってせいぜい一人あて一つなのだと思う。

素朴に、ドゥルーズの読解を巡るすごく下らないコンペティションのようなものがあり、それがドゥルーズが否定的なものとするヘーゲル主義の代替物になるようであればドゥルーズらしい本のイマージュの真逆の読み方な訳よねと思う。
差異とか動くものという以前にその落差(差異でなく落差)を巡る思考を捨てなければ全く内在的な読み方とは言えない気がする、けどそんな考え方自体下らないと思ってたんじゃなかったか。
下らないのだけど牽制として洗脳やマインドコントロールが存在する場合に、その構成を前もって指摘して内実をはっきりさせないといけないのかも知れないと思う。
どちらにしろ僭越な話で、ドゥルーズ現代思想的な入れ知恵も一切なしで、変な目に遭ってしまった人がちょっとずつでも報われるようにしないといけないんではないか。
     ♪
デカルトは《コギト》を瞬間に帰し、時間を排除することによって、あるいは連続創造を
行う神にその時間を委ねることによって、初めて結論を出すことが出来た。一般的に
言うなら〔デカルトにおける〕《私》の前提的な同一性の保証は、神自身の一性に他なら
ないのである。そのようなわけで、私がまさしく神に負っている同一性を保持する限り
〔中世的な〕「神」の視点のかわりに〔近代的な〕《私》の視点を〔デカルトが〕用いた
ということの重要性は、世間で言われているよりもはるかに小さいのである。《私》が
神との類似を余すところなく表現するおのれの存続、単純性、同一性を所有する限り、
神は生き続けるということになる。逆に言えば、神が死ねば私の同一性は存続せず、反対
に《私》のうちにおいて、本質的な非類似が、「印の消去(投売り用の商標外し)」が、
神の印(商標)あるいは刻印の代わりに創設され内化されるのである。これこそ、カントが
少なくとも一度は、つまり「純粋理性批判」において、きわめて深く見抜いたことである。
すなわち、合理的神学と合理的心理学の同時的消滅、および神の思弁的な死が《私》の
亀裂を惹起するその仕方。(「差異と反復」)
     ♪
このあたりデリダが市民権に落とし込まれた合理的神学の有用性を重視すること(少なくとも
軽視しないこと)と違う部分でもあるなと思う。違うからといって単にドゥルーズを読む
ことにとって、その違いがものすごくネガティヴな方向にずれるということはないのだが。
ただ日本で合理的神学や合理的心理学の排除など全く簡単で瞬時に行えてしまうことで
あり(恐らく一度も合理的神学が定立したことなどなく)、その跡地をカルトが恣意的に
埋めた上で、合理的心理学よりもっと濫費的な形式の分析が(専ら対象をスキゾフレニックな亀裂の上に据えるためにだけ)適用されてしまうということがあるんじゃないかと思っている
のだが(TAみたいなものを行いたがるメンターに不審の念がある)。
仏教系だろうがキリスト教系だろうが、要はオーソドックスでない宗教が常に自我構造を
査問に掛けるような形式は何だか不毛なのだが、そうやって統合を欠いた素材の上に
常に折り伏せられている人が居る、というのが問題なのだと思う。
         ♪
大昔に差異と反復を読みながら、近代的自我
構造にパチッと切り替わるみたいな事があるか
と思えて、デカルトを読むべきか訊いた事を
思い出した。
        ♪
MSNのトピックスにちょっと前購入して写真を貼り付けた招き猫の、もっと
鈴なりのものが!しかもちょっと私のの方が目がうつろ。

これがほのめかしだったらひどーいと思うのだが、何か全然キリスト教でも
何でもなくこういうものを購入してしまう、シュルレアリストの変なオブジェも
相当キてるが、生活だけはもっと簡素に改めようと思います(今年の抱負として)
そういう点プロテスタントは素晴らしいと思います。
浅草のひさご通りという所に招き猫やさんがあり、昔好きで買ってもらっていた
のだが招き猫って普通の猫の形と全く違うなぁと思い、インドフェスタで20cm
位の色のついたガネーシャの像が欲しくなりすごく自制が必要であった(買わなくて
よかった)。
       ♪
あまり無闇に信仰の対象の御名を唱えてはならない、というのを、結構リアリティの
ある事だと思っており、形式としてすっきりしている事をいつも美しく思う。これは
きれいな仏教美術に対しても、神社の空気に対しても思うこと。

迫害されて死んだキリストの永遠の命を信じるという話のため、そこから何か生身の人間なり不遇のうちに亡くなった方が害なわれにくい説話とか構造を取り出す事は出来る気がするが、音声を送信されているとか、高齢の家族が居るのにカルトに迷惑を掛けられてしまっている方の場合一体どうしたら助けられるのだろうと思う(内在的なテクストの読みとか転換の問題では全くない)。やっぱり早いところ法制化が必要な気がするのだが。
そうでもしないと、全く正統性なんかないのに、カルト繋がりでメディアに場所だけ与えられた人間の構造的な欠陥を、その宗派と関係がない他の(破壊的カルトでない)宗教が補わされるという事になってしまう。