小劇団に対する困惑

八十年代の悪口ばかり書いた気がするが、九十年代もイヤというか基本的に今何年なのか、という気になるのだが。
小劇団の演劇流行った時に結構見に行っており(本多劇場とか寺山修司とか)、普通に才能ある役者さんでも大変なんだろうと思うのだけど、何か昔企業メセナとかでお金が回っていた文化事業が梯子外されたので、成員がストレスで自分のセンスを脅かされそうになると他人を攻撃したり一般性に対する憎悪からストーカーしたりしてるという事なのかと思う。そういう現象の全体がどうでも良すぎるのだと思うが(未だにポストモダンの批評がどうとか言ってる人とか居そうな気がする。一切かかわり合いにならないが)。
何か九十三、四年の深夜番組みたいな道徳論とか、リリー・フランキーみたいな人とかも苦手なのだが、そういうものが個別に絡んできたら一体幾らお金貰わないと割に合わないか、考えると凄いイヤな気持ちに。糸井重里という人とさしで話さないといけない状況になったら私は30分六百万とか請求するだろう、と思う。というより、昔の業界人? みたいな感覚でずっと滞留して今起きてる事の本質を分かりにくくしてるのだから、本来なら糸井が他のクリエイターや市場に金を払うべきじゃないのと思う。今更ながら何なんだこいつという気に。コピーライターの何が偉いのかさっぱり理解出来ないのだが。

長い事連絡を取りづらくなってしまった友人が居る、某小劇団の事を考えながら(一緒にグローブ座に行けたのはよかった。滑稽なんだけど今でも一緒に演劇みれてよかった、という余韻みたいなものがあってもう演劇見に行かないかもなと思う事がある)。
スタニスラフスキー・システムみたいなもの(身体論?)と心身の情動のシステム化と脳、というのは多分それぞれ補綴しあうようなかたちであるんだろうが、単なるよい役者さんってそういう事を殆ど考えないんじゃないかという気がしてみたり。

ヴァージン・スーサイズもそうなのだが岸田理生さんとか完璧に十代前半から長くても21、2位までの感覚であり、実際30とか40とか50でそういう感覚の過剰が死に結びつくとかないような気がするのだがどうなのか(そういうものの置換物や代理を、支配的なカルトが行っている可能性)