脱線

しないように、でもブルトンを少し読む。読みながら私ブルトン好きなのだなぁというか、それは凄く滑稽な事に違いないだろうけど単に市井で誰の干渉も受けずに一通り、ブルトンを読んで自分なりに再解釈したいという気持ちがある。
何かメディウム(通底器?)を覗いたような。通勤中にまた少し読みながら、何だかよく分からない語が割とあって(鉱物とか何かの技術とか)、これが一体何なのか瞬間的に笑ってしまうのだがもう少しちゃんと読み取りたいという気持ちが強かった事を思い出す。

去年はやはりサフランが一輪も咲かなかったため、分球したものが小さくならないように肥料をあげないと駄目なのねと思う。ペパーミントが沢山茂っている。(季節関係なしの鬱蒼とした感じ)。

行政法規ある意味何となく定型的なお話。

DIESELの家具というのを写真で見ると、なんとなくこういうのが今っぽいのだろうなぁと思うのだが、あんまりDIESELが好きじゃないせいかその空間で生活してる人が想像出来ない。
何でだか屋根瓦のそのものとそれでしつらえた所を確認するという、やけにリアリティのある夢を見る(リアリティというか、単に瓦のパーツが妙に具体的)。テラコッタみたいなものを使った事があるにせよ、記憶の中に温存されて出てくると何となく不思議。

「論理と情報の世界」を購入。どんな本か解らないがサイバネティクスにしてもデータベース学にしても基幹の考え方があるはずで、そういうものは少なくとも40年とか50年位前は別に新興宗教に浸透されてなかったのじゃないかと思う。

(一般論として)存在論的な部分の歪みからくる虚脱感とか悲哀の感情が、鬱病になるほどではない、という場合薬理に頼らない自由があるが、何か優れない感情を1、それが起こらない場合を0に数えて1の時は必ず物質的手段(投薬)によって0に戻すというのが(極端に言えば)精神を解析するという事なんだと思う(ガタリのスキゾアナリーズみたいなものでなく科学的な意味での解析は)。生体に持ちきれない方法の気がしてならない。
企業内で産業医に掛けられた方の主張を読むと(私はそういう経験はないが)、たぶんそういう事であり背筋のゾクゾクが止まらない。
おやじ人事がそれっぽい病院の案内をファイルに持った状態だったので、別のおやじ上司の
素行のここが病気の筈、と指摘したらファイルを引っ込めた事があり、当のおやじ談合体質
がおかしいのにそのままブラック産業医とおやじ(教祖?)行政の判断で病院に入れられる、という事があればそれは精神病でなく喜国雅彦の漫画みたいだと思うのだが、笑い事という
かそういう事柄が放置されてるのが何故なのかよく分からない(信教の自由とかに照らして
単純に分からない)。
そういう現象の最悪の形が茂木健一郎であり、相変わらずパクリが止まらない。というか
もうこちらの語彙と重ねられるだけで理不尽さしか感じられず、何でこういう人が脳の
研究に当たっているのか、気持ち悪くて仕方がないのだが。脳とか感覚の研究をさせないで欲しいと思う。

もう少し単純に、それは治療の問題ではないけれど、精神的な痛みを見いだされて治癒に結びつくと望ましいのは、やっぱり目の前で津波にあってしまったりした人たちなんだろうと思うし、援助の為にとても沢山お金を出せる事(人?)に対して、その事自体は軽蔑の余地がない。
けれど収穫逓増のシステムを純粋に経済的に悪用する時のように、自分の収穫がそのまま他人の成果物の横取りであり(最悪そのせいで、成果物を収奪された人は自殺も考えられるとする)、それを後ろめたさの解消のため他の傷を負った人に還元する、というのは 、話がややこしいと思う。正義に照らして許しがたいというより単に意味不明なのだ。エントロピーの増大ってそういうのと似てるのだろうなと思う(たぶん)。全身全霊で嫌わざるを得ないのは、そういうエントロピーの増大し切ったものや人で、何故一度お前の事大嫌いなんだよねと言って理解出来ないのか不思議。病んでいるからだと思うのだが。そしてその病気の解消は本来カウンセリングとか受けさせるべきであり、精神的苦痛には法律上の規定がある(というのが猿でなければ分かるはず)