これは


好きな花。エルンストの絵に出てきそう。

作品に病跡学的な裏付けのある芸術家と、別段病理
的な構造を持たないが特異なパーセプションに基づいて
ものを作った作者と、全くの詐病や自己顕示から出て
るものがあり、当たり前だが問題なのは1番後のものかと
思うが、詐病新興宗教がどう影響を与えているかはもう少し
まともに考える必要があるように思う。(とにかく嘘と偽の
情報と場当たりが多い事を訝しむ)

別段病理的な構造を持たないが特異なパーセプション、というのが基底のモチーフになっていた事があり、思い出すと苦しいやら懐かしい気がするのだが、その時絶対音感があり食指欠損の友人が、図書館で時間潰していた隣に来たことがあった。今思うとタイルカーペットが敷かれてあった部分を見ながら「今色々と動くから見ていて」と言われて、その後本当に椅子越しにタイルカーペットがぐらっと動いた事を思い出す(どういう経緯か背中を合わせて座るようになっていた)。「あ、ほんとだ動いたね」と伝えたが(継ぎ目でなく全体がぞわっと立体的に動く感じ)、凄く可憐な出来事で、なおかつちょっとずつ累積した心理的な無理と(それは「紙一重」だった)、ああ、ちょっと「動く」のだなという感じをとても明確に覚えている(今すごく元気で居て欲しいのだが)。 ♪
何気にペンデュラムが楽しみかもという事を思いつつ帰宅の道すがら、幅の広い空の色がグラデーションになってるあたりを見る。

特権化やへんな事を言ってみた感じと全く違うあの空間ごと曖昧になる感じ(素敵な精神的要素はみんなそうだが)。 無限に痛ましい方向に向かわないようにしながらヴァージニア・ウルフの事ばかり考えていた。 ♪
パトグラフィーの対象になる文学者のうち、川端康成の自殺や体調不良の原因が電磁波というのがどうなのかよく知らないが、川端康成が共感してた新感覚派周辺の事象や(古賀春江もそうだが)浅草に言及する高見順や饒舌体の作家はもともとパトグラフィーとして取り扱うときに分裂気質に分類される他ないように思う。が、そもそも(それを統合失調と言い換えようが)分裂気質自体他に対する過度の強制力を持ちづらい気がしていて、例えばオカルトにはまって他人にその解釈を押しつけるとか(そういう事してるへんな占い師がいて日本語の構文能力が滅茶苦茶でキモい。おばさんがかぶりつきで占ってくる不快感もそうなのだがとにかく意味の通らない事を書き散らしてる)、単体で外因なしに暴発する事はない気がするのだが。

分裂病の診断基準になってたプレコックス感の有無というのが、果たして普通の診断の場で問われる事なのかどうか知らないのだが、何かそういう指標が全部いかがわしい新興宗教脳科学の言い値で編纂しなおされるのだとしたら、やっぱり杜撰なのではないか。 ♪
クラスタ分けする必要が…というかやっぱり精神的に癒えないといけないのは、震災の被災者の方とかで、現代思想業界の人が食いつめるのでアーティフィシャルに統合失調になりアーティフィシャルに病気扱いされるというのは無駄な過程の気がするのだが。

宗教の教理や大抵の神学は、第三者からはとんでもないいい加減な精神的審級にしか見えないという事をちゃんと認識したい(ドゥルーズポスト構造主義とカテゴライズされてる哲学に意義があったのは、そういう精神的審級の介在抜きに事をすすめようとしたからで、その過程でやっぱり単なるてらいを都度クリアにしていた人たちとしか感じないが。)

新感覚派的なもの周辺の分裂気質というのは、でも同時代性があるというか世界的にそうであり疾病としての分裂病とあまり関係ないかとも。大体新感覚派が二十四年、「シュルレアリスム宣言」が二十四年、「偉大なるギャツビー」が二十五年、と思うと美しい。