ゲド戦記位から

もともとアニメ見ない気がしており、スラムの描写が荒廃した町とはいえ現実の何かの投影らしく感じられてから別に今後見に行かないだろうなという気がしていた。

風立ちぬというアニメはあんまり気持ちの上がらない映画なのだろうなという気に。タバコの描写に難癖は下らないにしても当の描写が実在の何かの利害関係を色濃く想起させる陳腐なものというような。(完全に一般論なのだが、例えばほんとに神経質で機械好きの喫煙癖のある人がアニメを製作するスタッフに居るため特徴を取り込んで人物造形するような)

いろんな投影と常に無縁というのが他人に対してクリアな状態の精神に思うが、ある種の利権的手続きは暗喩と利害を一致させる為のおなじような語彙の運用でできていて、しかもその利権は決まって「悪しきもの」なので、関わってない時しか生きてないように思う。
夜寝る前にあんまり想起しないもの、例えば水盤に色んな種類の蘭の花が乗っているのだが水盤自体が四角いプレートで出来ていて側面に水抜きの穴があり、紫のものの前面に黄色く斑点がある種類が配置されている、という場面を目を閉じてかなり綿密に思い浮かべたとする。それが起きた時、陰影のある紫の蘭だけ抜き取られたかたちで自分の目の前におかれていたとしたら(水盤というものをそれまで持っていたことがないのに)、当然完璧に内的に思い浮かべたという事とそれが外化した事の間に通常なら乗り越えられないはずの(言語化したものだけが現前するというような)ディメンションがあって、摩擦が少なく楽な社会(的態度)はその次元で組織されてるものと気付く。それで、頼みもしないのに思考された蘭の水盤から故意に色を抜きとって、なんか間の抜けた印象の物として目の前に置く立場は、言表していない事を知ってるという事も含めてやっぱり悪という事になる。
でも社会化されたディメンションを都度修復出来てればそういう悪にわざわざ接触する必要はないのだが、やっぱりどうしてそう気持ちの悪いものなのか確認する義務があるんじゃないか。そんな事を思う。
すごく思弁的な精神の使い方しないと乗り切れないようなディメンションを素朴に生きてる人間に与えていいのかというところに、依然として許せないものを感じる。

http://news.goo.ne.jp/article/sankei/sports/snk20130914546.html
気持ち上がるというか現実におきていることをデュアルかつ
自然主義的な意味でも精確に書き残すのって意外と難しいのかも
という気に。

昭和軽薄体もそうなのだがずれたオヤジに対して普通の人の大人らしさとか内面に課金して、幼児性を振りかざされたらすぐにお金とれるようなシステムをどうにかして確立出来ないもんかと思う。ウザすぎる。