10年保留になっている

中井正一論、今年は書き切れるかなと思う。
ある件で懐かしくて仕方ない。「ラノベ」という
言い方が良くなくて、だから全く読んだことないと
思っていたが、コバルト文庫の事だったと分かる。
そして軒並み絶版になっていて、家に何冊かあるかなと
思う。

物事は恐らく構成が8割で、その構成する脳がいつもパラ
メトリカルに他人から問題にされる場合でも死なずに残っている
場合、構成する人なのではないかという事を思う。

「動きすぎてはいけない」を読みながら、「存在論的、郵便的」と「転形期の思考」がリアルタイムで批評を読んでいた最期の時期
であり、「存在論的、郵便的」が愚かな状態でまるで理解出来て
いなかった事を思い出す。凄い月日が経った。デリダの黙示録についての言及とかドゥルーズの晩年の批評の感じが身につまされるのが怖い。

仏文科教授が何か黙った。ほんとに仏教系カルト通さずこいつの分
私にもの書くポストを安定的に貰えないかなという気に。
コピーライターもそうだが、よくもここまでオリジナリティの無いおぞましいまでの馬鹿が平気で生きてるなという気に。しかもやはり、自分の娘は恐らく嫁に貰われるあてないのに、まるで合同結婚式みたいなノリで他人の媒酌とかしてるのだ。
ドゥルーズについて以前に、99年頃は流石にここまで変な人が本なら本を録でもないまま出すような世の中にはならないと思ってた気がする。

私はやっぱり「零度のエクリチュール」凄く好きなんだなと思うこと頻り。

花見の時期なのかも知れないけど本当に歩いているだけでお花が沢山。桜の花弁の渦が遠ざかったり現れたりする。

聖書の考古学という微妙な本があり読もうと思い買ったまま読んでいない。
一見荒唐無稽でありながら、クリアランスの取れた現実という事を考える。

業績の取り逃げとか意味不明のルートで嫌がらせとか、流石にこの事態が勝手に進んでたら文句言わないとという件が一つ。
某学律周辺、徹頭徹尾動きがおかしい上に、人の仕事でしてる事に
まで介入したり一体なんのつもりなのよと思う。

某学律は10年、汚物女性に私の書いたものを盗用させながら、私に
求愛というか不気味な感じで水向けてくる神経も理解不能
した嫌がらせ相応に苦しみながら死ぬんじゃないのとしか言いようがないのだが。
つくづく思うのだがゴーストライターの方が格段に教養ないと出来ず、表面化してる人は整形中毒でコンプレックスだらけという芸能界の構造、どうにかならないんだろうか。普通自分に何もなかったら世間に居ようと思わない気がするのだが。

コミュニケーション障害について結構深刻に考える。私のじゃなくもらいメンヘラみたいになるケースと、あと汚物女性の盗用の件でいうと本なり筋目の通った文書なんて、ある時期読んでないと書けないものであり、それが書けず整形しないと醜いなら人前に出ても
仕方ないと思うのだが。