もう少し

ちゃんと自然主義小説読んどくべきだったという気に。

覚え書きとして、wired購入したい。

変な狂言と転移的な嫌がらせ完全に止んだのかしらねと思う。内田樹のしつっこさもそうなのだが(沼昭三名前思い浮かべるだけで特殊すぎて吐きそう)、老人の汚物捨て場の癖にやたら転移してくる汚物女性が気持ち悪くて、一時全身総毛だっていたのだが。なんかどうも汚物好きと狂言臭というのがセットになっており、不細工だったり貧相だったりする感じに共通項がある。なんかほんと娘さんの友人とかにつきまとえばいいじゃないと思うのと、単純にお金の巡りだけ考えた時、これだけ何も作り出してないのに老人に金銭が回る仕組みはおかしいわよねという気がする。
こいつからつきまとわれてる分回収できてれば、私マンション位買えてる筈、というのを盗用乞食と同じ程度には図々しく自己主張しないといけない。というかもっと解りやすく言明しなくてはと思う。
自分はほんと地方出身者と汚物好きとの相性が悪い。体調おかしくなりそうだったのはやっぱりかなり細かいからなのではないかと思うのと、流石に馬鹿呼ばわりされたんだろうか某学律教員の死後硬直的なムードが加速してていい気味だわと思う。
なんか八割盗用というケース、研究の立脚地自体変じゃないのというケースはSTAP細胞以外に多いはずであり、そこからもっぱら性的慰労物としてだけ呼ばれそうとなると世話なさすぎよねと思う。私はやはりここ十年でもう少しまともにベンヤミンを読みたかった、そしてベンヤミンは抑制きいているところがあったのだろうという事を思う。

転移性感情の基底とものみたいな事についてあれこれあれこれ考える。
「シルトの岸辺」を若干読み進める。
シュルレアリスムもそうなのだが長期的なスパンで見た時にきっちり構成されているものから具体性を感じ、グラック「アルゴールの城」にしても「陰鬱な美青年」にしても凄く好きという感じはしなかったのだが凄いなと思う。ゆらゆらしながら構成されては消え構成されては消え、、、となる感じ。なんでこうじゃないかなという事も。