原理主義的なものの貫通

 それをどうやり過ごすか、というひとつの大きなテーマ。
通常の言語的コミュニケーションと全く異質の、感覚のみの
やり取りがあるということ、負荷と権限が異様に多く与えられて
いること、フリークスについての教育があるということ。
 それについてずっと一貫した考えを持っている。
それが現実に現れる時、なぜか物足りない文体としてある。大抵は
宗教の発するコードをそのまま内面化したものとして感じ取る。
 何らかの出来事のせいで、心理的形象とそれに伴う部分欲動がくみ変わる
可能性を、頭の中で予行練習していた時期がある。それは、
自分の死の感覚というよりも、何かが外側でひととして認知出来なく
なるほどいやなものになる感触と結びついていた。
(たぶんそういう感覚が症候化すると、リストカットや整形的な自己言及に
なるのだろうと思う。)
 あんまりきれいな言葉の空間性と結びついていないので、
そういったかたちをそこそこ要領よく捨てるように心がけていた。
けれど、対他的に、他人が自分の自己意識を症候化し、それを直接手中にしている
かのように感じる場合、私の意識には一体何が作用しているのだろう、と思う(テクニカルな側面を含めて)。
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 原理研的なものに対する、殆ど溢れるような嫌悪感というのは、もっと早く
1998年頃から兆していた。(これが何でなのか、私には全く分らない)。
 どこかで自律(ひとりだち)出来なくなるという感覚と結びついていて、
それがルネ・ジラールを凄くリアルに感じさせているのかもしれない。
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 「エホバの証人」のひとの輸血拒否事件。
 92、3年頃、私は結構大泉実成さんというひとの書く本が
好きだった。ゆるいスピリチュアリズムみたいなものと普通の生活感覚
が結びついている様態が感じ取れるように思っていたのだけれども、「説得」
を読んだ後に、宗教性を帯びた空間が血なまぐさくなり、儀礼を全面化して
ひとなんて救済しなくなる過程があるんだなぁと感じていた。(手元に本が
ないのだが、この本で大泉さんの取っていた方法は、対象に対してガツガツ
するような方法では全くなかったように記憶している)。
 その後にオウム事件が起きて、ずっと「何でこんなものが」という気がして
いたのだけれども、そのうちそれが自分の頭で考えないことを養分に、身体化し
たり景色として全面化するかもしれない、という妙な不快感があった。
 それを教育というのなら、私は全く教育と無関係のところにしか自分の感覚を
置いていない気がする。
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 猫と日教組
 
 知恵つけると言うよりも、あらかじめ誰からも文句が出ないようなもので
かっちり武装したあげく、先生はある女子生徒を自殺させるために家を囲い込み、
中で飼われていた猫を線路端に放りなげた。馬鹿だから傷ついたものしか救えない。
私たちは病気だねぇと言いながらそれを見ていた。