昇華と現実

 結局のところ現実は、絶え間なく昇華が執り行われている面の
一部を切り取ったものであることが、一番効率的なのだろう。なぜ
それが忘却されるのか。

 と言う事を確かに素朴に悩んでも仕方ない、と思う。
 けれど、
 「例えば、今日、大きく道を逸脱した実験科学について、その無害性
を世論に説得しようという、あれら奇妙な「倫理委員会」のここ数年来の
設置。
 科学、技術の専門家、数少ない「道徳的」人物、それから、大企業の代表者
を寄せ集めた、この間に合わせの機関の勧告は、ご承知の通り、世界の諸研究
機関や主要先進国グループ(G8)ー忘れないで頂きたいが、ミロシェビッチ
提示された和平案を、またもや国連を差し置いて用意したあの同じ八カ国だ!ー
の、科学から製薬、バイオテクノロジーへという数年越しの配置転換によって、
久しく愚弄されてきた。
 われわれのあらたな「司法の実権室」が、自らの存在を正当化すべく、ニュルン
ベルグ裁判に準拠して倫理を持ち出すのも、ひどく見当はずれの比較のように
思われる」(「幻滅への戦略」)
 という、P・ウ゛ィリリオの書き方は、強烈にほんとうらしくて(陰謀論とは
全く関係ない部分で)、倫理委員会は自然や人体裡にある法則性を了承を得ないまま
切り崩すだろうし、切り崩した部分の合理的反転が「倫理」なのだろう、と考えて
しまう。(だから、倫理という言葉は、科学にかかっていようが社会運動的な
ものにかかっていようが、それに触れたあと個々人の情動がどこに落ちるかを精査
する機構みたいなものなのだ)。

 私が昇華されたものや現実に対峙する時、「科学=倫理綱要委員会」的なものの口調
との絡みでわからないと感じるのは、前者と後者はそんなにラディカルに対立しあっている
わけじゃないのに、なぜ前者が無碍に踏みにじられる(かのように見える)のかという
ことなのだ。