物象について

 考えのなかにそれはあって、外化するまでに色んな形式を
取り得る。それが柔軟であれば(アドルノが書いてるみたいに)科学的
連関を超え出る空想というのがあり得る。

 被験と心裡内部の形象の対立とか均衡、メディアを通した拡散みたいな
事を考えると、アクチュアリティーって何処にあるのだろうなとつくづく
感じる。(科学だと規定されているもののアナロジカルな語彙への退却とか、
保守化する社会学的な語彙の私性との対立とか、それが教育に転用されることの
おぞましさ)。

 「そしておよそ作家ならば、次のことを強く主張するであろう。裸形の
母も妹も裸であれば裸形の女性にすぎない。しかも恐らく、まさにそのことが
最も忌まわしく思われる状況において初めて意識にとって裸形の女性になる。
おおよそこのような内容を、もっと着想を巧みに展開させて書くだろう」
(R・ムージル「芸術における猥褻なものと病的なもの」)

 外出する女に備わるただの個人性。そこから汲みだされる無限の平穏さ
と根深く対立するもの。
 ムージルにはまって読んでいたころに(もうずいぶん経つ)、結局
ファシスト体制みたいなものにどう耐えてるのか、腱として機能するものが
あるのかないのか分らず愕然としていたけれども、それから本当にファシスト
体制みたいなものがはり出してきたことの凄さを感じる。