被造物の恥ずかしさ

bobbinsmall2007-07-12

(写真は「あやつり人形屋」でMANUFAKTURAと書いてある)
 

 素朴な感慨なのだけれども、視像化された人の意識の
基底の言葉や形象が、全部他者の中にある、というのは
エロティシズムとか緊張を孕む関係だけれども、そんな
事で例えば「この世界がどうしてあるか」とか「地域に
よって内在する生活の様式が異なるのはなぜか」なんて
いう事の謎が解けるとは思わない。つまり、そういう形象
のゲームにかかって意識というものの謎が解けるとも思え
ない。
 思えないばかりか、それは「ただ単に」神経症的な
情動の偏りとかパラノイアっぽい視線の遍在を招いて、
色々な連関の引き出しが、醜く制御出来ないものになる
だろう、と感じる。

 だとしたら、そういった形式はどういった要請から
取り出されたものなのか、知りたい気がする。
 私はつくづく、特に社会学が持ってるそういう
形象のゲームに対するオブセッションなんて、人を
よく生きさせないなぁと思って不愉快だし、変な
話そういうものの被害を被った人に対しては、厳密に
金銭で償うべきだと思う。もともとの動機が拝金主義
みたいなものなのに、変な精神論がまとわりついている
分、本当にたちが悪い。