拘禁について

 拘禁反応に脳が耐えられるリミットがどれくらいなのか、考えた事がある。
治安維持法下で、政治犯として収監されていた人の思想的変節について
関心があった)
 転向という言葉で言い表される出来事だけでなく、何らかの拘束関係の
もとで変化が起きるような場合、どう〈もとに戻る〉のか、それから
また意識活動が円滑に行われる場合の、条件は何なのか(それは有り体に言って
「他人」、それもそれを通ってラディカルに他者になるような他人というより、
単なる人の景色とか、厚みや在り方みたいなものだと感じる)。

 けれど、条件は人それぞれだとしか言い様がないだろうし、収監されていてもいわゆる
拘禁反応が起きない人だっている(収監された事がある訳ではないので、解らない
し、今後収監される気も予定も全くないが)。逆に、単に社会の中にあっても、拘禁反応と
同じような出来事が思考に強いられる状態もある。

 なぜその辺りの事柄を、突き詰めてリアリティのある言葉で考える事が難しいのか、
というのは、何となく切実な疑問としてある。

 疑問を感じる前に考え始めてしまったほうが早いのだけれども。

 私は金輪際、ノゾキの人間に部屋が汚れてるとか言われても反応しないよと言うか、
そんな奴はノゾキの周辺に勿体を付けてるだけで、ぶれるような軸なんて最初から無い
んじゃないのと思う。
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