暴力のたわむれ

 ロベルト?ムージルのエッセイについて、いくつか考えていることがある。
 素朴に不安になるのは(この時期の色々なエッセーを読んでよく感じる
 ことだが)いま何故、一度問いとして終わったような事が全然
 別の科学的スケールで切り取られていて、なおかつそこで個人の生活と
 資質が無駄になっているか、ということ。

 暴力による身体情動へのてこ入れとか、人の過去/現在/未来の視像化みたいな
ことは、たぶんそれ自体何の重みもない(それがその人特有の生であっても、例えば宇宙と
いうものの成り立ちからすれば、個人の生は解剖学的に説明が可能な、すかすかな構造物でしか
ない)
 にも関わらず、何でひとだけ、意識が問題になるのか(もっと言い換えれば、何故私は
「おかしさ」を感じて不快に思ったり強烈な怒りと軽蔑を感じるのか。それから、何故そ
 こそこ納得するのか)。
 エッセイによく出てくる「別の状態」という言葉は、何となく考え方として解りやすい
 気がする。
 とはいえ、そんな事が今さら問われるのは何か変だと思うのだ。多分個人でも、何かの
歴史的節目でも、こういう事が問われてから日常性に馴染むのは、割に早い時だろうと思う
ムージルがどうということではなく)。それなのに、何かの潮流のなかでそういう問いに
ずーっと停滞させられるってどういう事なのか。つくづく考えてしまう。
           

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 例えばある問いの中で「文脈」っていう言葉が使われてるとして、そのことだけが
全てでも何でもないのに、些事としてシカトすべき小さい文脈があるかのように振る舞うの
は、単に僭越(もっと言うと夜郎自大)じゃないのと思う。(というより、そもそも臨床も
持たないのに意識とか意識の病理化を研究すること自体、変なんじゃないかと思うのだけれど。
私の家系に精神的失調の経歴はないのだけれど、臨床で見えてくるような統合性失調の家族歴
とかそういう領域をむやみに触る学問があるとしたら、それは単に恥の手口だと思う)。
 そういうことの薄っぺらさに何で耐えられるのか。