メディアと無意識「夢語りの場」の探求

新宮一成 編著「メディアと無意識 「夢語りの場」の探求」を衝動買いする。
 長い事「ラカン精神分析」のファンだった。人は夢と詩的言語の中で
織られることがあり、その時に内心(そもそも内心って何か)で、どれだけひどい
事を考えていようと、明らかな実在と堅固さを持って外部に残るのは詩の方だけだ・・・
みたいな事を思っていた。それから十年。

 「内心」は特段の手続きを経ず、外化可能なもの、あるメディウムへ接続して
増幅可能なものとなった。これは病的な妄想というのではなくて、〈現実〉なのだ
けれど、その先の観照地帯の理論化に、内心を至らせたいと思う。
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 二日続けて書いた短文は、夜に見た「夢」ではなくて、時間にして5分か10分の
間に、思い浮かんで書き留めたものだけれども、科学的手続きやメディアの中にでは
なく、こういうものに(それは他人が持っている事が多い)、啓示的なものと現実の
空間的な関係が書き落とされていくような気がする。短時間セッションの私有化。

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 ある時期から、ずっと具体物の方に、具体物の方に・・・と考える癖をつけていた
のだけれども、その緊結された部分こそが、解体する欲動をひきつけるコプラになる、
という事。それが脳のなかにもある(有り体にいって「ニューロンの発火」というもので
ある)というのは、時宜にかなった考え方でしかない。
 けれどこれを「拘禁反応一般」というものと絡めるか、「一次大戦下」という時期に
限定するか、今の時勢での実験的なパラダイムと結びつけるか・・・のところで、私は
いつも迷ってしまう。もっと楽な道がある、と感じることもある。
 楽なことを書いているときが、夢について書かれた短文の集積だったりする。そこには
生体や機械的反応を稀薄にさせる景色そのものがある。それは美的な実在感がある。
 さらに、その美的な実在感を、「加法混色のようなもの」として捉えるか、「減法混色の
ようなもの」として捉えるかによっても、事態は全然違ってくる。
 その事だけを考えても、自然科学を思考に適用するのには、やたらと広がりがある事が解る。
広がりのあるコプラの解体を、日常性から超越した科学的主体が担い、解明し得る、というところに、既に(ラカン風の)幻想がある。
 
 この「コプラの解体に伴って発生する幻想」って、結構重要かも。