ポップ・イコンとしてのロボトミー

 に惹かれていたことがある。寓話性の高さと暗さ。人が人を操作可能な
ものとして扱うこと、から逆に措定される精神というものの在処。(それは
殆ど場所のことだと思う)。

 

 その中で誰も癒されないようなソフトマシーンを探して、夕暮れ時にうろつくことがあった。
強く栓を抜けばほとばしる、霧状の液体で満たされた銀の器のようなもの。手に入れると
少しずつ死んで行く。普通に生きていること自体、少しずつ死んで行くことだとしても、それが
可視化される。そういうものは神話の醸成物として、色々な場所にある気がするが、どれも身体の
欲動を措定しない。ただ、時間のなかに置き忘れられたように在る。
 あとはかなりあざとい話なのだが、何らかのロマンティシズムを孕んだ考えが自分のなかに湧き
起こる時に、それがどこかにある何かの、主体的な欠損から来るもの、だと思うこと(必ずしも
ネガティヴな事ではない)。

 淡い色の虹を肩から斜めに渡して、胸の前で交差させ、ウェストから下は青く染めた木綿で作った
ワンピース。ウェストには、白金に大きい粒のガラス玉を沢山通したベルトを締める。
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 ラカンの「エメ」。http://www.ne.jp/asahi/village/good/lacan.htm
ヒステリックな「寸断された身体」を指し示す文体というのはひとつのモードで、そのなかに金銭的価値とか
(大して内実を含まないまま)正当性が奪取されていくというのは、とても左翼的(戦争的?)な景色なんだろうなー、
と思う(実際はエメみたいな症候を、色んな人が稀薄に持ち続けていて、こんなに底の抜けたパラノイア
なる事はないと思うのだけれど、攻撃性って相手との同一性でしかないと考えて、私は吐いたことが
ある)。
 私はその寸断された身体性の上に、何か薄膜みたいなもやっとかかる感じで、滑らかな往還の場所が
あるような気がずっとしていて、どうしてもそれにこだわってしまう(夢の中で喋るというか、喋り声を
聴いたり自分も喋ったりしている時がそんな感じなんだけれど、たまにそこからばーっと何かが押し寄せること
がある)。
 よくは解らないのだけれども、何かをエスタブリッシュする立場というのは、そういう往還に対して
垂直の軸を重視するような気がするし、あんまり寸断された身体性の上の連続性みたいなものにこだわりも
しないような気がする。けれどそれを視ないということは、人の本性とか思考の本然に対して、あらかじめブラインド
をつくることの気がするんだけど(だからそこでは、何かが解明されにくい)、どうなのか、私にはよく解らない
(すごくひねくれていて、知らず知らずのうちにそう考えてしまってるだけなのかもしれない)。