ラカン癒し系/

「メディアと無意識」面白い。


 ・・・思えば、「ラカン精神分析」を読んだ時に、患者の女性の台詞で
「ナッチャンレモンコンニチハ、ナッチャンレモンコンニチハ」というのが
あって、ああ、こういう言葉が聴き取られる場所を思い浮かべるのも無駄な
ことじゃないんだなぁ、と和んで、少しふわっとした事を思い出す(意味の
ない言葉じゃなく、すごく大事な言葉として喋っていたんだろうなぁと感じ
たのだ)。

 内視によるめちゃくちゃな時間と、世界の滑らかさみたいなものを感じてる
時間と二つ大事にして、どんな集団に属していても、夜寝る前の三時間くらいは
考えに誰も関わらせない・・・というのが理想だなと思っていた。
(その整合性を取れる時間を、宗教と監視社会化で幾らでも排除できて
しまうと解っただけでもすごく収穫だったけれども、そうする事によって
現実をどういうところに持って行きたいか解らないものに、私は嫌悪を
感じる)。

 二つくらい前の日記に書いた「社会学特有の楽園の否定」というのは、
別に社会学者はサーフィンしない、とかそういう話ではなくて、端的に
言って「去勢」のことで、その方法が父性に依らず、冷戦構造下の方法みたいにケミカル
だったりテクニカルになる時代が来るんだろうなぁと感じていた時期が随分
長かった(オウム事件のせいもあると思うが)。
 でも(心理的被害も含めて)トータルして考えたとき、そういうものの毒に
自分が感染する義務も、ましてやそんなところで死んだり狂ったりする義務も
ないわよと思う。文学かぶれの人間でそれなんだから、イヤなのに巻き込まれた
人なんてもっとそうなんじゃないのかなと思う。
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 下に引用したウィトゲンシュタインの文章にあるように、思考過程は脳から
読み取れないという仮定は自然だけれど、人間性の不自然な場では、ヒトの意
識をオブジェクティウ゛に
捉えて読む位のことは、もはや可能、なんだと思う(その他にも意識変容を
めぐる色々な実験的契機があったと感じるが、たまたまそういった考え方に
馴れていないだけで、実際は〈意識〉というものを相手にすれば、そこでは
相当倒錯的なことも、現実の中で取られている整合性の外部にあるかのように
見える事も起こりうる)。
 けれどその事について、まともな考察が出来ないとつまらないような気がする。
 何でこんな事をずっと抱え込んで考えているのかと時々思うけれど、ある時期に
一生の課題だと思ってしまったから、としか言いようがない。だから、私は本当に
ある問いが「意識の成立の謎」を解き明かすのだとすれば、そういう問いをたてる
ことを無駄でないと思うけれども、ケミカルな手続きでそれが
解明されるというのは、絶対に違う気がする。