久しぶりに

ムージルの「三人の女」を読む。面白い。
マッハの物理学がムージルに影響を与えたと読んだ事がある。
物理学や量子力学による去勢が外傷化し得る部分と、そうでない
部分がある。外傷化し得ない部分が感覚であるように感じるのだけ
れども、感覚一般に対して、何らかの科学的主体が外傷的な契機を
潜ったあと言及する感覚は、私にはあまり面白くなく(潜勢力を
活かし切れていないものに)感じる。
 それから、昔から一度ウィーンというところに行ってみたいと
感じていたのだけれども、旅行をしながらつくづく感覚についての
学問の先鋭化や透徹は、凄く昔に終わった事よね、と感じた。
 それに加えて、1950年代に行われたような、民間人を被験体に
取ったハードコアな意識実験についての想像力が、たんに生活していると
もちにくいけれど、それは在る。
 この両方のもうとっくに終わってるような出来事の
組み合わせで、今さら「人間の感覚質を解き明かす」なんて、戯画にもならない
ように思うのだけれど、何で皆そのことに対して怒りを感じないのかなぁと
不思議に思う。
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今まで見えなかったバリエーションが、ふっとあらわれること。
ある時代に完結した実験的な見方が、他の何かと交錯すること。
多重化された場所に、たぶん性的なものとも利害ともあまり絡まない
関係性が、構図としてきらめくことがある。それを意識と呼んでいるような
気がする。

 手のひらに乗るくらいの大きさのプラチナの樹に、青ガラスで出来たぶどうの房。
 アラバスターとサファイヤを6角形のビーズに切り出したものを銀糸で繋げて房に
編み(太くより合わされた房だ)、細かなひび割れのある水晶で出来たポールの真ん中に
吊るしてある。
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 自由間接話法について(これは5年くらい前に取ったメモ)。

 一行よいと思ったら、それを手がかりにして文章を接ぎ木することの意義について、
もう少しよく考えてみること。例えば、ヘーゲルの全体を知らなくても、彼の言った
言葉に基づく「姉弟の循環」的なものがあるということが言える。そしてゆくゆくは
この一行に〈ヘーゲルの全体〉を演繹させ得るような意味を込めなくてはならないのだ。
 ものごとにものごとを組み込んで行く主体がリゾームを形成すること、そして組み込まれた
ものの地形、地図の描写、反宇宙的な地図ではなくパラレルないくつもの宇宙、その上を行き来
するとき、死者が私を〈知っている〉と感じること。
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 「自由間接話法」は、たぶん流行したことのある書き方だった。とはいえ、やっぱり
際限なく使えるものだとは感じられなかった。

 文章や時空を綜合したりショートカットする技術が、より生理学よりになっている
という大きな背景。
 その中で、ラディカルな崩壊がラディカルな別の感覚と結びつくことに、オイディプス的な
ものや抑圧が全く作用していないとは考えにくい(むしろそれだけしかないのかもしれない)。