マッハと感覚所与

「マッハは全ての知識を感覚に還元するが、彼の思考のすべても、これに基づいて
形成されている。すべての科学的な試みの課題は、感覚所与を最も単純かつ経済的
な仕方で記述することである。マッハは実際に感覚所与を、より中立的であたりさ
わりのない「要素」という言葉で呼ぶほうを好む。それは、際立って科学的である
単純性と経済性の特徴である。したがってマッハの見地は、徹底した現象主義者の
それである、世界は感覚に現れるものの総和である。それゆえ夢は、他の要素のクラ
スと同様に世界の「要素」を形成する。」(「ウィトゲンシュタインのウィーン」)

 私は科学にも科学史にも詳しくないけれど(マッハも読んでみたいが、今のまま
じゃ読んでもあんまりピンと来ない気がする)、この節は素直に納得出来るものがあり、
もし仮に〈意識〉というものの性質を的確に捉えようとしたら、神学や生命学的なもの
が強調して捉えられるより、まず夢とか超越性(神)もまとめて記述出来るような現実
的な展開が、個々の意識に〈在る〉というところから始めなければいけないのではない
か、と思う(少なくとも私にとっての「意識」の追求は、詩の問題としてそうい
うところから始まった。それは多分無条件に定立する現象世界を基盤にしている。
だから、何らかの方法がその基盤を動かせるとすると、それで困るのは脳のストレスから来る
機能低下や萎縮だ)。

 アメリカの科学者さんが、感覚質を今日的な問題として捉えようとする意味も
何となく解るような気がする。これも雑誌のバックナンバーで読んだだけなのだけれど、
ダナ・ハラウェイがカリフォルニア大学の「意識史」という学部について、「意識史なんて
言うのは何を学ぶか、何を教えるか全くいかがわしいものなのよ」という
ことを書いていたのを読んだのだけれど、カリフォルニアという場所で探究される意識は
純粋にそこが孕んでいる意識についての蓄積を反映してるんじゃないだろうか。

 だとすると今日本で研究される「意識」と「感覚質」の基盤は?
 それが唯に経済的な意図しか孕んでいないとしたら(当たり前だけど経済的な
意図が孕まれること自体は大事なことだ)「それ、私(僕)の意識と全然違うので」って
なるのは仕方ないことだと思う。