野生のシクラメン

 15日に書いたシクラメンだが、書き方は色々あって、「遺跡の傍に咲く」という
のはかなり慎重なつもりだったのだと思う(店先で売られてるもの以外は、地中海
の荒涼としたところが起源の花なので。そういうところも含めて好きな感じだった)。
 「意識」とか「予兆」とは何の関係もないことなのだけれど、久しぶりに読み返した
ノートにそんなことが書いてあったあとで、こういうニュースを知ると嬉しいよねと思う。

http://sankei.jp.msn.com/region/kanto/saitama/071220/stm0712200238002-n1.htm

品種改良に20年もかかるんだ、と思うと同時に、何か新種の植物が開発されて世に出る
時って、生態の揺らぎみたいなものが人の感覚にも微妙に影響するはずだろうなと思う。

 音楽にも物質全般にも言えるはずのことだし、そういう事をすごく具体的に、ヴィジブルに
捉えることが科学的な効率の外部で起きているのであれば、それは別段科学的手法で弁証される
必要がないのではないか、と感じる。
 そのことについて言いたいことは山ほどあるのだけれど、もう少し整理してからにしようと
思う。

追記 素朴な疑問。
人と意識の結びつきを問うのに、何で現象学的還元じゃいけないんだろう、と思う。その方法をフォーマルに人から教わった訳でも何でもないのだけれども、少なくとも内在と超越の間が短絡したり暴走したりする事なしに意識についてアプローチ出来る方法のはずだ。その方法が取られず意識に肉薄するのに、例えば脳を対象にした走査があったとして、本当に科学的に人の意識が解明出来るとは思えない。
そのとき科学知に対するスタンスの違いが、個人の感覚の悪さみたいに表象されるのは間違っているように思う。現に科学は人の意識の何を解明出来た訳でもないのだし。