円環

座席の上に小さく折り畳んだ紙が置いてある。開くと丁度真ん中に染み込ませてあるインクは濃い紺色で、まわりに広がる部分は薄い水色をしている。眺めていると絡みあった紙の繊維に入り込んでいるインクの流れが、窓の向こうにある湿った雲の流れと呼応しているようにも見える。日光はどちらにも粉っぽいきめのある光を投げかけていて、光と目が感じとる事の隙間を秒針のようなものが埋めている。

(昨日)やらなきゃいけない事が沢山あるにもかかわらず、少しのんびりしてもいいような気もして(電車に乗りながら)「フッサール現象学における物的ノエマ的なものの超越」をパラパラ読む。
「物」「危機意識」「科学」「自然的態度」どれも別段一者が支配的に語る必要なんて全くないなぁと感じる。
科学者でタレントのK.Mという人に対して、私は自発的に関心が持てないのだけれども(多分反ファシズムについて書きたかった10年前も、感覚質についての科学的見地を究める学問と聞いただけで胡散臭さしか感じなかったと思う)、感覚についての学究が人の感覚を目的化しなきゃ成り立たないという事を考えても、なんでこの手の人を次々持ち上げるんだろうなと思う。危なっかしいというか(大体被験者は身内から取るべきじゃないのと思うし、チャーマーズクオリア理論にある必然性みたいなものが全く感じられなくて、その薄まったパクり本を読んだ時に離人症めいた雰囲気に吐き気を感じた)。
任天堂とか単なる脳の機能主義とか、そういうものが人気ある理由もよく分かるなぁと思う。

陰謀論的な見地は関係なく、権利上人は人の感覚が大幅に変わるような出来事に敏感になったり、防衛的にならざるを得ない。それが意識にかかる場合大抵が譲れないラインを持ってるわけで、そういう事を全部無視してる科学知なんて只の下世話なご都合主義じゃない、と思う。

「感覚質の研究をしているけれど任天堂が好きだ」という人が居て良いわけで、以前ちょこっとニンテンドーDSをさわった感じからしてもそれで良いなと思う。