今年一年

心底ありがとうございました、と言いたい人と、もっとお話したかったです、と言いたい人と、来年はもうちょっとどうにかなるようにしますので、と言いたい人と、色々居るなと思う年末。(作品や著作を通じてしか存じない方を含めて、私にゆっくり考える時間を下さった方、本当にありがとうございました。内面のロケーションが外部からどうされようと、そこは一貫してごくあたりまえの、感謝の念だけしかありません)
ワタリウム美術館南方熊楠展へ。(前回はヘンリー?ダーガーの展示を見たのだけれども、世の中にはファリックガールの妄想より異形な、女のファルスってあるよねぇと思う。「まなざし」と「攻撃性」「同位」「食物の調達」に関わるのだけれど、私には上手く言及できない。お腹いっぱいな監視を被ったあげく女の子を外されそうで)。
南方熊楠が収集していた粘菌とかキノコは何だか凄まじいもので、でも内視とか微細さを追究していくと、こういうものがある世界にいくなと感じた。
物と心の重なった部分に生じる事の世界の体系をつくりたい、という考え方をフッサールチャーマーズが言っている事と重ね合わせると面白くて、年始めそれを抜き書きしてみようと思う。

来年はもうちょっと、まともになれているといいんですが、と思いながら予定通り欲しかった本を購入する。それからイアン?マキューアンの新刊をおごってもらい、読みながら色んな事を考える(私マキューアンがとても好きで、読みごたえあるなぁと感じる)。
気疲れ含めて、疲れてだらしなくならないようにしたい。

「キノコに対する自然的態度」が、たとえば炒めて食べるとおいしいとか、テレビでカロリーが低いと言ってたとかそういうお話だとして、一方で「コミュニケーションの媒体としてのキノコ」とか「キノコ的な生き方」みたいな考え方があって、私の中では微妙に危険な思想になっている(そういう考え方に含まれてるのは前言語的なものの伝達の問題なんだと思うけど、詳しくは分からない)。カウンターカルチャーの裾野みたいな部分でそういうコミュニケーションが肯定的に扱えたころと今はまた別なんだろうなぁ、最終的に大向こうの理解が(もちろん私の理解も)及ぶのは自然なお話だろうなと思う。何だか精神とか脳というものに対する見方について感じるのも似たような事で、まず自然的態度とか定立点があって、オペレーションとか深淵を探るとかいうのは、双方向性とか信頼をベースにしてされなきゃいけない気がする。社会学ぼけの人は、世の中の定立自体がまやかしなのだから、覚醒とか深化こそが大事で、定立や自然的態度は進んで侵犯せよみたいなことを繰り返し書くけれど、何だかそれもご都合主義に感じる事が多い(特にセンシュアルなものがからむ場合には)。そんな事を思いながら、他にエネルギー使いたいので、来年こそはデタッチして下さいね、と、心の中で数名にお願いする。
(と、私は完全に内面が解析されうるという立場で日記を書いてるのだけど、現象学も科学も関係ない人間が無理に嫌がらせされた場合でも無傷で立ち直れる方法を来年は考えたいと思う。たかが人がたかが人に自殺とか発狂とか苦境を強いるためにそんな事するのは許せないので)