蜃気楼

 小さく丸められた紙を開くと、それが蜃気楼の型紙である、という夢を見る。
 蜃気楼は各自のあり方によって形を変え、あたりへと零れ落ちる。
 あるものには薄く切り重ねた琥珀の扉を空けて「入ってこようとしている人」の
 影がひそんでいて、それは少しの揺らぎで幾重にもわかれるのだけれども、
 その何処に、その人の実態があるか良くわからない。

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 昨日の夜に書き留めた文章が、アップする前に消えてしまった。
 けれど久しぶりに、すごく長い、小説的なものの感じがやってくる。
 (現実はあわただしいけれど、そういう時、人の想像力とその場で
 することの関係ってどうなっているのだろうと思う)。

 ジョージ?マクドナルドの「リリス」という小説を、たまに読み返し
たくなるのだけれど、本棚の裏とかほんの少しの場所に、ぜんぜん別の
出来事と世界の感触がある、という感じ。
 あんまり人を非難するようなことばかりを書きたくないので、少し折れようと
思うけれど(というより、本当に100%、私の書いてる事に同調したり依存して来るので)私は意識が、精一杯それの持つ法則性を切り詰めても、
生まれてくるのはそういうものどまりで、数式とか物理原則ではない
ような気がする。だから原則を数式につづめようとする以前に、単に
「本」のイメージを書けばいいのだと思う。しかもそれは、モダニスム文学の
形式という、日本文学の中でなぜか流産してしまった形式の回帰なの
だと感じる。
 本当はすべてのメディアが「あるモノについて思考する脳」に
よってできているものに過ぎない。
 (だから人は形而上学について人と話すこともできるし、テレビに
ついて人と話すこともできる)。
  ♪
「偉そうな事を言うならお前がばんばん増刷のかかる新書とか書いて人を食わせてみろよ」と言われたとして、、、
とっさの思いつきなんだけど「モテ公害論」「モテ公害対策篇」というのはどうだろうかと思う。
どう考えてもこういう好かれ方はまずいでしょ、という好かれ方には気象のように類型があり、「モテ公害」は精神衛生上とても悪い広義の環境問題なのだ、というのを、ポール?ヴィリリオとかと関連づけたらそんなに間違っていないものになりそうな気がする。