鯨/デリダへのスタンス

鯨のかたちをしたのぼりが地面に対して垂直にあげられている。口の先は雲に近く見える。あたりにはアーモンドのにおいが立ち込めていて、なんとなく日が暮れたあとの夜の浅さを感じさせる。匂いを嗅ぎながら鯨を眺めていると夜は底まで更けないだろう。夜は底まで更けたことがあったのか、どうか。

意識についての学究に対して師弟関係が成り立つかどうかについてぼんやり考える。というか、私は科学が苦手なので、科学的に卓越した人を師とか先生と感じるということはあり得ないんだけど、単に意識という言葉の取り合いで勝手にK.Mさんの弟子扱いされていることがあるようで、気味悪いから、切っておく。
科学がもし人間の感覚の基底を成す言語的なものに肉薄出来るようになったとして、意識の謎が科学的に解明出来る気がしないのは、ただもう「伝統的にそうだったから」としか書けないのだけど、それ以上に違和感を感じるのは、多分デリダ的なものに対するスタンスの違いが大きいのかなと思う事がある。 ♪
それでスタンスの違いについて書きたいのだけど、こういう硬い書き方をすると気持ちよくこちらの関心から離れてくれるので、もう二度と私の生活に関心を持たないでね、と言っておく。というか、肉親だったら完全にDVだよねという位理不尽な真似をされてるし、この手の人って、何か世紀の大発見でもしたら自分の異様な行動が正当化出来るって本気で考えてそうでキモい。