エリザベス・ゴールデンエイジ

 美術展を二つ見た後、「エリザベス・ゴールデンエイジ」を見る。すごい映画。
昔から感じていることだけれど、イギリスの文学とか歴史の中にある小説的含蓄
としか言いようのないものって、何でこんなに生々しく響くのだろう、と思う。
抑圧状態でじわじわっと生きていることの実感を味わうような人がいっぱい出て
くるのは、面倒な感じでもあるけど、最初から何もかも許容されてて、何もかも
生命的なのよりリアリティーがあるな、と思う。(それでエリザベス一世はイギリス
の平和を保ったのだ、というと思いつきなんだけれど、いきなり強烈な流れに押し流
されたりしなかったのは、単純な人じゃなかったからのような気がする)。
 ここ数日、すごく真剣に「小説的含蓄」ということを考えていた。
(私は、そのことに何の特権性も見ることができないし、そういうものがまっとうに
外化しなかったとしてもただ生きて考え続けるしかない。含蓄の中には、今まで
思い込んでいたもののフォルムが急激に反転したり、怒りや苦痛からの解放が殆ど
身体性を変えるようなかたちで到来することも含まれていて、そういう現象が一方向
に何か解明しようとする科学で説明されてしまうわけがないと思う。最初から安全
地帯を構えた上でやりとりされているジャーゴンは、いくら普通の人に理解しにくい
ように見えていても、それ自体まやかしでしかない)
 という程度のことは、ほんとはいろんな小説家の方が考えていることなんだろうなぁ
と思う。

 というより、本当に切望しているのは、単に納得いくまでそれらについて考えること
なので、やる気がないんだったらやめればいいのに、と思う。

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 2月19日に書いた文章とか、あとは以前書いたいくつかの文章であんまり人を
罵倒しているので、いくらなんでも口がきつすぎるのじゃないか、と思ったのだけれ
ど、私は本当に薄っぺらい人格障害的な存在感とか、言表とかだめなのだ。
 パクり癖があるとか人のことを晒しあげて平気な癖に料理だけ作ろうだとか、何かものすごく
惨めっぽい気がして許せないし、第一本当に世の中そんな人ばっかりじゃないからね、と
思うのだ。90年代に苛々し損ねた人間の遅い思春期みたいなものでしかないと言うか。
 私は可愛げのある人のよさを認めることにかけては人後に落ちないつもりでいるので、尚更
そうなのだけれど、女の癖に晒し上げが趣味なら家事全般はあきらめればいいのになぁと
思う。