小林秀雄と主観

近くに「Xへの手紙?私小説論」がある。
最近この本を見るにつけ、「表層批評宣言」を読んだ時の事をセットで思い出してしまう。
「批評とは、ついに己の夢を懐疑的に語る事ではないのか!」
という、「様々なる意匠」の一節に対して、読むに耐えないから捨てた、というような事が書いてあった。
主観性が、本を捨てたくらいで排除できるか解らない、と思っていた。
ポスト構造主義的な主体概念の解体に対して、今度は小林秀雄的に主観と印象を大事にしましょう、という流れが、つくづく漫画みたいで理解し切れない。「捨てた本を拾ったら、主観が戻るのか」みたいな。賞を作って「いい主体仕事」を表彰し、もって主体の回帰とする、というのは雑だし。
そこにある申し合わせが、メディアを通してどう感覚(一般)に送りとどけられているか、その中で解体を被っている主観は、どういう方法により解体を被っているのか、「ちゃんと考える」のは面白い。ちゃんと考えないと、つまらない。