ペットサウンズ

昨日購入し、あっという間に読み終わる。 私は村上春樹さんの小説の、まともな読み手ではない。よくわからなさと一緒にだけ感じとれる。それはやっぱり12年ほど前に、初めて「カンガルー日和」を読んで以来一貫した感覚で、少ししてこの不可解さは、作品自体がトラウマのように、複雑な隠蔽で成り立っているからなのだなぁ、と感じた。
(内面的な男性が、無制限にモテたいがために身体を鍛えつつありったけこじゃれた事を書いてるよ、みたいな事を、もっと身もふたもない言葉で感じていたのだと思う。私はそういう作品に何となく出口の見えない居心地の悪さを感じていた。でもこの居心地の悪さは、文章を書いていてどうしても街という字を書きたくなる時の、ぞわぞわした居心地の不確定さと似ていて、本質的な感じもする)。
けれど、ノンフィクション作品や翻訳には、ある作品(なり事件)に言及しなければいけなかった理由がありありと感じられるものが多く、そういった本を読んだ時は、人気の秘密と何故ノーベル賞候補にまでなったのかかよく分かる気がする。素朴過ぎる感慨だけど結局ある場所なり事件なりが記憶されるようになる時の、深い深い衝撃について、知りたいと思う人は多いのだろうと思う。
ブライアン?ウィルソンのカリフォルニアは、最初居心地の画定出来ない場所で、その後針で感覚の表面を撫でるように、その土地に読み込まれたファンタジーが刻まれていったのだ、と空想する。
それは結局のところ、ある土地に対する過覚醒以外の何物でもなくて、ポップスなり芸術や詩なりといった例外状態を併用しない限り(これらは穏当な把持の装置でもある)、1人の人間の感覚には持ちきれないものなのだ。
ベンヤミンにとっての、パサージュもそんな場所だったように思う。

ここで、1つだけ心底「これで良かったんだ」と思わざるを得ないのは、本当にそういった傾向を持つ作家に対する自分の無力さがはっきりと解った事で、そこには淋しさもあるけれど、無力である事も含めて、書く前よりは色々な事がしっかり見えたように思う。 (私は、ベンヤミンのある種の読みかえを、始め期限を切って2年で止めるつもりでいた。想起も追体験も根拠を欠く気がしたからだけど、今は根拠がなかった訳でもないと思う)