断片

ある事件判決を知って。
「たまたま、ポスト構造主義が流行した時に子供で、14歳という年齢で自分の異者性に悩まなければいけなかったと言うことは皮肉に思える。1980年代以前であれば異者性を取り込みそれを誇らしげに提示することは流行でさえあっただろうし、時代の区分もその事の延長でしかなかったような感を受ける。そもそも、非歴史性を肯定に開いてゆくはずの運動が、いたずらに前の世代に成立したテクストを否定するなどという事はないように思う。にも関わらずそれは行われた。あとに起こる事件の言葉は、単なる病理の引き出しになった」

昔犯罪者の言葉の希薄さについてなんか書こうとしていた。全てがそうとは言わないにしろ、異端文化みたいなものに対する稀薄な感情共有だけを元手にして、免罪を狙って吐かれる言葉があるなぁと。たぶん、死刑判決などの事後に書かれる言葉とは本質的に違う。しかも、異端文化というものがあるとして、そういうバッファの質自体が異様に低下した後の事件、出来事、言葉が人を嫌な気分にさせるのだ。
嫌な気分になれば勢い、動物的な勘で、下らない事を言いながら罪を犯した人間の再起不能を願うしかない、それが世論という形をとれば、論理的考察とは全く別のレイヤーで刑は執行される。という流れに鈍感なもの言いは、相当欺瞞を含んでいてグロテスクだと感じる。