そういうプロジェクト

 MKウルトラ(1950年代の、CIAによる精神操作実験)に比肩する方法で
自分の居るべき土地やあり方から疎外され続ける、という話を、一番アクチュアルな言葉で書きたい、
と思う。そんな風にして私は、自分の言葉とあり方を殺され続けた。

 それでも、どこかで平穏な日常の幅とか具体性だけを信じ続けていて、それには10代の終わりに
読んだ現象学の本の影響が大きかったように思う。
「意識についての研究」が、学問のどのあたりに位置づけられているのか、そのときは考えもしなかった
のだけれど、日本の哲学の中でそれが占める割合の異様な少なさが理解出来なくて、全部一から考えなおさ
ないことにはどうにもならない、と思った。
 ドゥルーズのブームとか、80年代的なものの弊害について考えるたびに、結局のところ分裂病を称揚するほど
精神分析や病理に対する下地が固まっていないのではないか、と思った。その弱さを巡って単に病理的手法を
内在化させることが、哲学や科学の方法論にすりかわる一瞬があり、本当はそれが真理に到達するという考え
自体が妄想でしかないのだと思う。 
 そういうものは感覚に蓋がされてしまったみたいにぬるいのが気に食わないし、たとえばラカン
ついて、本当に何の発想もないのだとしたら、ぞっとする。

 普通の(評判のいい大手企業の)営業さんという人たちについて。
 私は心底、そういう人と話をしていると納得していて、そういう人の妙じゃなさや気負いのなさに
助けられていると思う。
 前出の詐欺師みたいな人たちに反省して欲しいと思うのは、精神的にフラットじゃ
ないことのイヤさかもしれない。