サバルタンにすること

ポスト?フォーディスムの労働環境とエリート主義の混合、身元を剥奪する事、洗脳。 出かける途中で「サバルタンは語ることが出来るか」についてちょっとだけ考える。そうする事によって、日本の、ドゥルーズ受容とその後のトリーヴみたいな事柄を自分の中に描こうとする。
所謂ドゥルーズ主義みたいなものが称揚する「スキゾフレニックであること」「女や子供であること」が、そのまま他者の生体反応(物理的な脳なり器質の反応)の中にスライドする事、それがまともに抑圧を経て浮上する社会的なコノテーションとずれる事、そういう事を創造性一般に置き換えようとする企業体、みたいなイメージが浮かぶ。「サバルタンは語ることができるか」に書かれていた未亡人の殉死や、何かの儀礼と結びついたブルジョア婚的なストーリー(女性が、献身によって何らかの発見を男性的主体にもたらす)は、企業に丸抱えされたエンターテイメント事業であり、広告的に処理しうる。
だからこそ、そんな領域に「意識」と呼ばれるものの本来の形はないように思うのだ。(なによりそれが持っている構成と流れのきめが、広告的処理のなかでは寸断される)。
なので、どうせやるならまともに考えて欲しい、と感じる時、薄っぺらな科学と広告の結び付きを意識に置換する事を止める事(それに巻き込まれる事も止める事)が、意識について考える第一歩だと感じる。