宮崎勤

死刑が執行されたのが、秋葉原の通り魔事件に対する見せしめだという説を読んだけれど、抑止力にならないような気もする。
宮崎勤の書いた死刑取り下げ要求の文書はすさまじくて、読むとこういう人の事をスキゾフレニックと言うのだろうなぁ、と感じる。
(秋葉原で事件が起きてからいくつかの犯罪の事を思い出して、宮崎勤の書いたものを読んでいた)。
死刑は恐らく、論理的な考え方で割り切れないレイヤーに残り続け、これからも不可解な事件があった時に執行され続ける。その事を悪いと感じる権利が私にはない。少なくとも犯罪被害者の家族だけは、それで幾らか報われるのだとすれば、死刑制度を廃止にする理由もないと感じる。 ただ「ネズミ人間」だのドラえもんだのが犯罪を帳消しにしてくれる、というような薄っぺらい詐話的希望は、死刑制度を残したところで存続するのだ。 サブカルがただそういうものでだけ成り立っている気がして、もう見る気も聞く気も触る気もまるでないのだけれど、鬱陶しくて病んでるもの程、人の事を過剰に統制しにくるなあと思う。無いなら無いで一向に困る事がない、クリエイティビティとか、拘っていたら駄目になるような内面的な感覚とか。そういうものを見聞きする度に、やなもの見ちゃったなあ、と感じる。
連続幼女殺害事件や神戸の少年犯罪にはそういう嫌さがあるのだけれど、秋葉原の事件はある意味単に困っていただけなのではないか、と思う。

何回目の通読になるか解らないけれど、大塚英志「「おたく」の精神史」を読み返す。 大上段に構えて<意識>を問題化しているようでも、その実この本の中に書かれている企画もの文化人や企画ものサヨクの定型から出ていないものが沢山あって、遅れてきた80年代、ハイカルチャー風味みたいな展開の中では何一つ解明されていない気がする。