二重真理説について

つけ焼き刃みたいな感じだけれど、ガリレオと二重真理説について少し確認する(哲学的真理と神学的真理の違い、みたいな事らしい。つくづく、そういう考え方があったという事が思い起こされにくいというのは怖い事だと思う)。
神学的真理を担ってるのが正当なキリスト教じゃなく、ある種のカルト(大学原理研みたいな)だという条件で考える。哲学的真理は神学的真理にいつも義理だてしていて、なにかそういうもの特有の儀礼を経由しない事には哲学的真理に言及できない。それを単に個人的な問題として抱え込んでいるならよいのだけれど、そういうストイシズムが欠落している人から目をかけられるような形で自分の中の哲学知やら感覚を奪取される場合、事態は混濁してくる。
自分にとって見覚えのない神学的コードが勝手に意識に作用してしまうのってものすごくリスクが高く、気持ちの悪い事だと思うし(退行とかわけの解らない欠落とかに満ちた時間になりそう)、そういう手法で編纂された個人の感情が本然のものである事はまずなくて、強いられてる無理から生じるせん妄様の感覚が大半になってしまうのではないかなぁ、と思う。
神経症的でオブジェクティブな妄念というのは、結局のところなんの意味も結ばない。けれどある種の学律は成果をそれが見てとれる事に求めるしかない。
「精神についての物理的法則を数式化する」という命題があって、テクニカルな方法があたえられたとして、仮に3年実験を続行し何がどれだけ発見されればその命題自体に意味があったと考えられるのだろう。
実験的な物理科学の素養は(強烈な嫌悪感があるからか)0に近いのだけど、ひとつもし本当に精神を数式化するとしたらこれは使えるんじゃないか、と思った方法があり、それはラカンのマテームを
どうにか正統的な物理科学の言葉で整合しなおす、という事だ。