夏の映画

インディ ジョーンズを見る。たぶんテレビの再放送で最後に見たのも5年以上前で、インディ ジョーンズという人がどういう立場の人かとっさに思い出せなかったのだけれど、オープニングから数分でこの話はちょっと含蓄があるなぁ、と思った。時節は冷戦構造下で、ソ連のスパイで精神感応能力があり、少し先の出来事が思考閾に表象されるスパルコ大佐という女性(ゴツい)が出てきて、そのエンパシー能力の大元にある超古代文明の水晶で出来た頭蓋骨を巡ってお話が進んで行くのだけれど、アクションの構成はともかくとして冷戦下の怪しい科学研究についての雰囲気になんとなくリアリティーがある感じだったのだ。
冷戦構造は解体されたけど、企業レベルでそういうものにはまっている所があるんでしょ、と思う。ポール ヴィリリオの引用でG8について触れたときに感じた事だけど、そういう利権の大元がどういう思惑で動いているのかは一般人にアクセスしにくいものなので、人権侵害についてのコードも法規制も出来ないけれど、中は相当うざい研究だらけなのだろうなぁ、と思う。 映画のなかでさえ、「それがもし科学と呼べるのなら、彼女は科学者だ」とか言われていて、結局意識と人間の認知にまつわる科学って、権力欲と結べばすぐキワモノ扱いされざるを得ない物なんだと感じる。そのキワモノパラダイムの回帰の中で、晴天の霹靂のように何故人には意識が備わっているか解明されちゃうなんてあり得ない、と思う。(変なパラダイムの回帰だなんて感じずに済むこともあるのだ。例えばある研究者の集めた文献が2万点、と聞けば、そこで重んじられているのが情報の数式化というより、色々な見方の結節にある結び目みたいなものなのではないか、と思う事ができる。本当は直接的な科学技術の濫用より、そちらのほうがよっぽど科学的なのではないだろうか)
映画の帰り道に、みんな寛容だよね、と思い、少しやるせない気持ちになる。私はいい加減な科学者の気味の悪い科学知なんて徹底して要らない。

能を見に行く。(しっかり見たのが初めてであり、舞台の設えだけでも美しく遠心的な感じがして、空気がすっきり澄んでいて素晴らしかった)
「清経」という演目。

「聞くに心も呉織、憂き音に沈む涙の雨の、恨めしかりける契りかな」というツレの表現があり、またちょっと思考と気象の事を思う。