メモ

「意識と認知の関係の主な結び目は、現象に関する判断にある。われわれの意識体験は、孤絶した現象の真空地帯にあるのではない。われわれは自分の経験とその中身を自覚し、それについて判断を下し、そしてそれについて主張するに至る。私が赤いという感じがするとき私は赤を感じていると確信することがあり、それを言葉による報告にして発することができる。より抽象的なレベルでいえば、私が本書全体を通してしているようにしばし手を休め、意識がつきつける不思議を考察するとき、人は意識について判断を下している」(デイヴィッド?J?チャーマーズ「意識する心」)
この一文を引用するまえに、単なる心的エネルギーと現実界の親しさみたいな事を考えていた。美的称揚とか何かの儀式によって招来させられる心理的な像の過剰さは、社会的な言表にたどり着かないし、そもそも<本当に考えていること>なのかどうかも怪しい。それなのに、その事を思考し得る、と強弁する主体が、メディアの上澄みの部分で行う儀礼的なパフォーマンスみたいなものに、心ごとひっぱられてそのまま、という事があり得る。何か新しい種類のおぞましさという気がする。



21日に恩師(女性)と美術館を2館はしごして、フェルメールの絵を見ながらなんだかうっとりと身体から力が抜けていくのを感じる。
光がうっすら当たった時にしか具体的にならない女の人の内面的な生活は生々しいのと同時に精神的な感じがし、それが本当に小さいサイズのタブローの中にあり、見ていると16世紀の絵とは到底思えないほど自由な感触の絵だった。
「ヴァージナルの前に座る若い女」という絵に描かれているヴァージナルは、持ち運びできるクラヴサンのような楽器で、その手の楽器から流れる室内小曲のような音楽が、自分にとって凄くツボなんだという事を感じる。