オフィリア

天気がものすごくいいので歩いてて気分がいい。のだけれども、出先でケンタッキーに入ったら、多分20代前半の女の子が、携帯電話で、自分の家が「30代の地っ味ーな感じのメガネ掛けたキモい男」に盗撮されていて、カメラが仕掛けられていたのを警察が検分しに来た、という話を延々していた。(電話の録音機能で音声を記録する)。
本当の話だとすれば、盗撮とか盗聴なんて全然統合失調の症候圏の問題じゃないわけだし、とってつけたような何かだったとすれば(そのとってつけた感じが)まだ初秋にも関わらずあまりにも寒い感じだなぁと思う。
でもお陰で「キモい」の一言で切り捨てても構わないようなものの基準が、自分の中でかなりはっきりする。

ミレーの「オフィリア」を見る。花や野草がぎっしり描き込まれた背景は、実際ミレーがイギリスの河畔に滞在して描いたもので、その場所の写真が展示してあった。あまりにも絵そのもので、光の中にたくさん柔らかい葉陰が浮かび上がっており感動してしまう。(オフィリアが溺死するところの、花がものすごく象徴性を帯びていて言葉や行動と類推される感じがあまり好きじゃないのだけど、絵に描かれた河畔はそういう事とあまり関係がなく、もうただただ柔らかい陽の光にもつれた植物の葉と水が浮かび上がっていて素敵だった)。
オフィリアという人が何だか人間として好きじゃないんですよね、という話をしながら、小林秀雄の「おふぃりあ異文」という小説を読んだ時の、なんかなにこのしょうむなさ、、、という気持ちを思い出す。
あと絵のモデルになったエリザベス?シダルが、ずっとバスタブの中でポーズを取らされていて、肺炎になりかけた話も可哀想。映像化の呪縛って絶対あるなと思う。