金のさくらんぼ

あいづちをうちながら、階段をゆっくりと下っていく。階段は硬いが隅のもろい石で出来ており、何かの虫がずっと昔に落ちた跡が点々と黒い斑になっている。場所を通過するというよりはあいづちにあわせて、軽く波打った葉が視界を染め上げる。その葉の下にはさくらんぼがいくつもなっており、殆んど金色に見える。
金色に見えるものは他に、山並を縫って落ちる陽の光で、これも場所や時間に限定されてあるというよりは、ほんの少し、それを牽引する動きに導かれて、私のすぐそばにある。正確に感じとるとそこには、俗っぽい感情が沢山詰め込まれており、たとえば氷を浮かべて、すごく濃く煮出したお茶を飲みたくなる。


マッハとムージル。人間が正確に感じとろうとする事にとって、単に<自己がある>という制約が一体どれくらいのものなのか、という事を思い浮かべる。(秋らしい感じ)
感覚主義の文章が、ただそこにある感じを受けながら小説を読むときに、やっぱりある一面で小説っていうのは厳密なケーススタディで、要は人の集団に起きてた今までないような感覚の変容に順応するための道具でもあったんだ、と思う。
そういうもののもつ調整機能が在ったにも関わらずナチスナチスだった訳だし、手前勝手に人の領域を食い荒らす新興科学的な手法も別段今日明日に態度を変更出来ない(だから少なくともジャーゴン抜きで、態度の変更が起こりうることを強調する現象学のほうがましかまともに思える)。でもそのまま突っ切ったところで、意識についてどんな科学的発見があり得るのだろう、と思う。
あと自律神経だけ調整がきけばまずまず他人の病気に巻き込まれてる状態から抜けるかなと思う。