嫌悪

「妾にも子供のころの楽しい夢があったとしても、それが一体今の妾に何でしょう。この惨めな心を透さずに、妾に何が思い出せましょう。誰のせいだか知らないが、ほんとに誰のせいだか知らないが、もう何も要らなくなってしまいました。思い出が楽しい程、阿呆ではなくなったのかしら。いや、いや、何もかにも、妾の惨めな心のご機嫌を取っているのかと思えば馬鹿馬鹿しい。今こそ妾はやっとわかった気がします。心というのは生き物です。到底、人間なんぞの手には合わない変な生き物です。あなただって、そうだ。妾だって、そうだ。みんな、知らないうちに、食い殺されてしまうのです」(小林秀雄「おふえりあ遺文」)

心理機能がやけに前面化している女性の気持ち悪さ、居心地の悪さみたいなものをこの小説を読むと感じるのだけど、ある一面でそれは周囲から強いられることでもあるのよね、と思う。心理的側面が無理やり実体としての女の人から搾取される、というのは妄想でも思い込みでもなくて、ある種の傾向を持ってる人(たとえば教祖のようなもの)とのコミュニケーションって、それしか起こっていないんじゃないだろうか。
それで問題になるのは、そういうコミュニケーションに気づいたあとすっと醒めて、「あんたは結局何がしたいのよ」みたいな心境になったとき、効率よく次の心理的環境に移行出来ない事なのだ。(しかもこっちから進んで、宗派性の強い人に興味を持った訳ではない場合尚更)