小林秀雄に「夏よ去れ」という詩があって、とてもよい気がする、という話をしながら、つい夢中で小林秀雄の批判みたいな事をひとくさり喋ってしまう。私は、作家が色々な意匠(にしか見えないのかもしれないけれど、実はなまなかな本質主義よりリアルな感触のある道具だて)を使って書く事の切実さにFIXしていない気がして、長いこと小林秀雄という人が好きになれなかった。
けれど。
「今日の科学は、万物流転に関する驚くべき絵図を描いた。疑う余地のなかった物質の幾つかの基本性質が崩れ去った事は誰も知っている。物質の構造は、意識の構造より変化に富んでいないとは誰にも言えなくなった。空想が人間を追う、「私」を追い詰める。宇宙の無秩序が、精神の無秩序に、よく釣り合うことに我慢がならなくなった時、例えば「光の円錐体」という窮余の一策が生まれる。それはよい。だが、そういう具合で果てしがないということは、なんと忌々しいことか。」 と、ここまで引用して、これが昭和25年に書かれたエッセーで、それからずいぶん経つのに意識についての認識なんてそれほどすすんだわけでなく、ただ人に対する統制技術だけが変わったと書こうと思ったのだけど、愚痴になるからやめることにする。
それより、茂木さんが今日の日記に書いてる階段は私の13日の日記にインスパイアされてるっぽい。でももう茂木さんに抗議するのをやめることにする。(何だかんだ言って、意識のながれだの詩だのに関心を持っている人の絶対数の少なさを考えると、一度着目するとそのままになる気も解らなくもないねと感じるのだった)。仲直りしましょうね茂木さん。この階段はあげますよ(なんだそれ)。
もし新しく研究場所兼仮眠がとれて適度に運動も出来るような場所を作る計画があったら、私に内装計画させてねと思うのだった(そんなに私の考えてることにリアリティーを感じるなら私の考えから出たとこに居れば、私を洗脳しなくても私の考えが分かるでしょという落語の頭山みたいな怖い理論)。
思いつきを書くと、「インテリア」という凝りかたじゃなく、学生さんとディスカッションする二間続きの部屋があって、使いやすいテーブルと椅子があって、窓下に棚があって、プロジェクタだけきれいに使えるようにし、給湯室と小さいストレッチブースみたいなものがある部屋と、ベッド置く部屋があるような別荘は使い勝手がいいんじゃないかと思うのだ。外観は単なるインターナショナルデザインにして、中の棚組と家具に配慮する。赤がお好きなので、シンプルな格好のいいポイントとして、ジム?トンプソンのタイシルクで赤っぽいのを使う(気がむいたら続く)
 それからちょっとジム トンプソンの製品を見たのだけれど、赤い色もオリエンタルで、上品で自然素材だし、CIAのエピソードも面白いので、
ジム トンプソンしか考えられない。