bobbinsmall2008-10-27

ちょっと「この考えだけはどうにかしとかないと」と思うので書いとく。
(自分でも何となくデリカシーが無い感じがするんだけど。)
プライバシーがまるごと飛ぶ少し前に付き合ってた人と当時婚約してて(今幸せになってくれてるといいんだけど)、写真はその人から貰ったものなのだが、受け取った瞬間さすがにやばいものを貰ってしまったような気がし、ずうっと封印していた。(天野可淡の人形を撮影したものかもしれない。ヴィレッジ?ヴァンガードの袋に入っていた)。
普通に付き合ってたのに何でこんなものが出るのか、というかあんたの中で私はこんななのか、というか、実際の私はもっとやわい感じのはずなのに、どんだけ脳内転換すればこうなるんだ、と感じて頭が痛くなった事を思い出す。
たまたま、彼は茂木さんと同じ学校の文転で表象文化論科を出た人だったけど、今考えてみるとそういう人特有の屈折というか、女性に対する呪縛の念があるよね、と思う。それを違和感なく肯定できればいいのだろうけれど、なんかあまりバランスが良くないような気がするのだ。
バランスがよくないというか明らかに失調しながらバランスする事にしか関心を持ってないでしょう、というのが痛痒いとこで、普通の女のひとってあまりそういう時の自分(失調しながらバランスしてる時の自分)に固執しないと思うのだ。蝶々やあやつり人形ではないのだし自我欲動(死の欲動)を適当にやり過ごして、無理なく生きてるのが常態だとわかればそちらで自分をフォーメーションするものでしょう、と思う。あと身もふたもないのだけど、十代の女の子ならそれも可愛らしいけど二十代でそういう感じだと気まずい。 (知人に30代のリストカッターが居たけれども、私自身は素だと「なんて可哀想なんだろう、そんなことしなくてもすむ方法を全身全霊で考えた方がいいのでは」と思ってしまう)。

 15年くらい前にアングラ系の雑誌を読んでると、自分は人形作家になりたいんだ、という女性が沢山いたのだけれど、そういう欲求と外部の世界(人の内面とあまり関係なく動いてる世界)ってまず噛み合っていず、多分人形作家になった人はあまり沢山居なかっただろうと思う。
澁澤龍彦のブームがあったとき、リブロポートから出版されているベルメールの写真集を図書館で読んだが、おそらく澁澤龍彦にも幻想文学ブームにも、ベルメールが造り上げた、折れ曲がって傷に満ちた人形の身体が抱え込んだ、ファシズムに対する屈託は反映されていなかったのではないか、と思う(そのことを、たとえば浅羽道明澁澤龍彦の時代」を確認しながら書いてみたいと感じる)。たぶんファシズムに心底屈託する以前に、一旦ものすごく趣味判断的な次元で、傷とか過剰な痛みに満ちた身体性とファシズムのモチベーションが同期してしまって、そのまま共依存的に閉塞していく過程があり、フェミニスムとかそれ以前の女のひとがまっとうに在る空間性を圧迫していて、相も変わらずそれがラディカリズムとか文化生産と取り違えられている、というあんまり気持ちのよくない光景が続いているような気がする。すっごい嫌だ、としか感じられない。
 でもじぶんが「反ファシズム」にこれだけ拘泥しなければいけない理由もよくわからない。(条件付でものすごいファシスト的なところが
あるからなのかもしれないと感じる)。