ようやくまともに / 内田樹先生の断筆

プライバシーの平準化についてようやくまとまった感覚がもてる(日常生活が<自明のもの>として赦されていて、監視を被っているわけでも「洗脳されていて、思考が奪取されている」わけでもない状態まで揺りもどすのに、存在論現象学をどれだけ援用出来るのか、というのがいちばんの関心になってしまっていたのだけれど、言葉をどうこうすることですまない媒質性が身体にも思考にもそなわっており、それを巡って始動するファシスト的な感覚と、感覚質の厳密な定義化は重なるところがあるように思う)。
そうこう考えているうちに内田樹先生が断筆される。
、、、よく解らないのだけれど、「霊性の賞揚」とメディア内の位置確定に、一私人の生活を関わらせるのは凄く下らないことじゃないのか、とぼんやり思う。でもそれが、すごくスタンダードな手口でもあるのだ(なんでこんな事まで同位するのか、と思ってよくゾッとしていましたけど、私ももう少し図々しく世渡り出来るように頑張ります)

「パクりでしかものが書けない」というのがよく解らない。多分一度もそういう精神状態になったことがない。そのせいかそういう傾向のある作家のエッセーを載せている雑誌を見ると見識眼をひけらかしていても、単に空虚なんじゃないの、と思ってしまう。