枝ぶり

積乱雲のなかに突き刺さるように、青い針葉樹が生えていて、そばを通るとき金色の光の路が、歩いている場所の陰りを晴らすように広がる。それは何故か音も帯びていて、幾重にもかかる異なった音域がよくさらした布のように途切れず、自分の感覚する箇所を打っていく。不意に自分の、枝ぶりという事を思う。日の光を透かしてみると、私も植物みたいに張り巡らされた様態を場所に対して持っているのではないか。なんの拘りなしに鳥が訪れる、丸い頭の影が枝の上を掠め、その影がかえってはっきりと差す陽の光の所在を明らかにする。

電車に乗りながらバタイユの「呪われた部分/有用性の限界」を読んでいた。何となく霊性とか呪いとか、色々な様式内に抱えこまれているオカルティックな現象のどこまでが人為的に起こされたものなのか考えようとした時に読みたくなるのだけれど、読んでいて感じとるのはある種の律儀さで、どうせ(たとえば意識について)考えつめるならこれを前提にしてもいいのに、と感じるのだった。 モダンな意識についての問題提起がなされた点を、一次大戦前後と考えてしまう。(戦争後遺症と不況による機能不全から、モノのファンクションを考える意識と、そうでない意識の弁別がはっきりなされたのがこのあたりだから)。それらの問題提起は色々な文学作品に形式的に落とし込まれているけれど、日本文学の場合には定立されていなくて、社会的な位相が似通うとなんの反省もなく、絶対矛盾的自己同一みたいな超空間的な融通性が回帰してしまう。パクりが解らないのと同じで、そういう融通性のなかでの肌目の剥離もよく解らなくて、結局問題提起の口振りと方法論(勝手な投影や被験(+_+))が変わっても内実が同じなら意味がないじゃないの、と思ってしまう。
不況による機能不全と福祉国家化(の伴う暴力と幼稚化)について、もう少し2000年代特有の肌目に満ちた見解を配置する事が出来るような気がする。けれどそれがどういう形でか、考えたりない。そういう時にバタイユを読むと多少はっきりすることがあるんだった。