リビエール

河畔のある町で、湿った空気がながれる。細かい明かりのなかにリビエールと赤で書かれた看板が浮かび上がり、文字をランプの鋭い光が照らしていて、謎めいていて綺麗に思う。完全に照らしだされたその言葉の意味するものは河だったけど、奥には龍の気配を抱いている。看板からはガラスの扉が流れ出るように黒い舗道に向かって伸びていて、その扉には白い曇りの加工で環を描く龍の姿が映しとられている(鱗の網目模様に血が通うみたいに、店の中の調度の気配が反射している)。自転車は一台、荷台つきの錆び付いた銀色のもので、ケータリングによばれているときは影もかたちもなく、それ以外の時は一度も稼ぎだしたことがないように店先に縮こまっている。急に晴れ上がって地面が乾いている時、前輪も後輪も固く引き締まって、スポークの銀色が際立って見える。
店の床には翡翠色のリノリウムが敷かれていて、高くとられた天井は、鍋底みたいに真中が撓み、黒だった。撓んで低くなった位置に龍の鱗を模したランプが鈴なりの照明が一基ついていて、真上から円を描いて拡がる卓子を照らし出している。ごはんを食べる時、それなしには考えられない、あの人の手から出る脂で汚れやすい、廻る円卓が置かれていて、来たひとは振り分けられずその周りに座った。卓上にはメニューが置かれており、どこからでも無理なく覗きこむことができた。 店の裏、厨房の扉の側には白いワイヤの鳥籠が置かれていて、鮮やかな青のインコが棲んでいた。


(11月6日)用事があって出かけた先の公民館のようなところで、演目にヘンデルメサイア、とあってちょっとだけいいなぁと思う。
茂木さんの昨日のブログにヘンデルについて書いたエッセイが引用されていて、別にこれは偶然の一致でもいいんだけど、個人の心裡環境と個別の媒体の一致とか不一致について、昨日の私はかなりプラグマティックに考えていたのだった。(他にしなければいけないことがあったからだけど)