リビエール(2)

常に皆、棲んでいるのだった。この場所では、華美な店の中で、字画の多いその生き方を命の上に引き当てていた。鳥はよく鳴いて、その時羽根の色がいつもより少し濃く見える。店からも白い浮薄な籠からも解き放たれて、河に直接命が溶けるのはそんな時だった。棲むという字はがんじがらめで、休みなく浮き沈みする力が働いている。その中で龍と人と、人と鳥と隔てているのは、単に性に作用する感覚の比重だけかも知れなかった。
ある夜に円卓の半ば、一輪の柔らかい花が置き忘れられていて、それを中心に人の身体が切り立った土地のように開かれていた。鱗の明かりは光が灯らなくても、身体の熱目掛けて降り注ぐのだった。強く波打った長い髪が暗がりを少し和らげており、これもともすれば、河に流れこみそうに見える。
波打った髪の中にある顔は長いこと伏せられていたが、仰向いた瞬間、表情を穏やかな水のようなものが満たした。

コンタクトがなく1日目が痛い。
バタイユを読んでいて、例えば意識と鏡について書かれた箇所があるけれど、それは美的な言及じゃなく、科学的に正確であろうとして書かれたものだったのかも知れないなと思う(美的に読むバタイユというのは鬱陶しいのでない。ミラーニューロンというものについてはよく知らない。けど、ラカン鏡像段階論を発想するのに、鳥が捕食するときに神経組織が他の鳥の動きを捉えて模倣するのを、鳥を解剖して確認していたという話を思い出した)。
日本語で<河>とよばれているものはフランス語でだけど、<リビエール>と妥協して書かれてしまうことがあって、でもその事にも一定のムードがつきまとう。そんなとこから意識の発生について考えるのも面白い。
(で、どうせ<意識>というものについての問題提起をするのであれば、ちゃんとテクストを読んで、哲学的総合みたいなものと別に小説か詩か、その問題提起をした個人の個別性が反映されている形式をもつべきだと思うのだった)。
小説は楽しいのでまとまった分量を書いてみることにする(色々あって断念したままの事が多く、嫌になってしまう)。