意識される言葉

「きれいな日本語の破壊」に対するバックラッシュ
日本語が亡びるとき」という本を読んでみよう、と思うのだけれども、その前につらつら思いだす事があった。
たかだか15年位前、リアルタイムで読まれている「日本文学」と批評のコトバは「美しい日本語の破壊」を推奨していた。ポストモダニズムの時代区分からは少し後の出来事だったにしろ、ドゥルーズドゥルーズ=ガタリの影響から、ナショナリスムと結びつきかねない正確で古典的な言語運用に対して、アナーキーな逃走が賞揚されていたという事が大きいのだろうと思う。その頃こっぱずかしい自由間接話法が流行った。今でももっぱら反体制(?)を標榜するライターは自由間接話法とか、書いてる事が複数性を示すような文体を使うけれど(要は数人で持ち回りで書いていると言うのが本当のような気がするけど)、たぶんそんな文体が傷を穿つようには作られていないのが経済圏というもので、自由間接話法的な口ぶりにリアリティーがなくなると、反動的に「きれいな国語」についての語りを回復させて共同性を支える、という経緯があるのではないかと思う。(この時共同性は、ラカンの言う想像界のようなもので、一度も明確に体験された事がないにも関わらず、頭で考えた場合想定し得るもの、だ。母国語としての日本語は母(親性)から伝達されるものなので、恐らく日本語を使う親性がある限り「亡びない」。けれどその未来を想像すると、過去に有った豊かな日本語に対して、自己所有出来る語彙とか言語像がいつも目減りしたり崩れたりしているように感じられるのは当たり前の事で、それは捉えようによっては日本語が滅びていくように感じる事も出来る。ただその「亡びゆくかもしれない」という話を切実に出来るのは、やっぱり実作にあたる作家という人たちだけなのだ)
私が素朴に凄いと思うのは、母国語の消滅や危機感についての作家的な実感を、評価したり賞揚したりするのが純粋に理系のひとたちである、という事で、これは小林秀雄賞というものが許容している感性についても言えるのだった。美しい日本語なり優れた文学の大切さというものは、そこで素朴に信じられているわけではなく、斜に構えた見方かもしれないけれど人文学的なものの見方に対する理数系的なものの見方の優勢を確保するための色々なシステム(そこにはたぶんインターネットを通じたある種のマーケティングとかも入る)の強調と利便化という事が含まれている。本当に聞きたいことは、そういった利便化に携わる人たちは「日本語」だけの終わりじゃなく、人の意識内部にコトバが在る、という事自体の決着(=終わり)を想定していて、しかもそれは、既に生身の思考する人の脳というものを、不当に侵犯する事に依っているのではないか、ということだ(前に科学研究費の浪費とある種の学律について書いたけど、結局そういう研究から、今のところ「意識」自体の謎を数理的に解明する結果なんて出ていない、と思う)。


メモ。
「詩の運命」のラマルティーヌを語るミシエルの言葉。「ラマルティーヌ氏は、帝政時代の知的隷属状態をその目で見て、こう書いている。、、、「それは思想と詩に対する数学的諸学問の全面的同盟であった。数学だけが許され、栄誉を称えられ、保護され、代価を支払われていた。数字は理屈をこねないので、当時の軍隊の指導者は数字以外の盲従者を望まなかった。」」 アルフレッド?ミシエル『19世紀フランス文芸思潮史』Ⅱ、パリ、1863年、94ページ

(ベンヤミンの『パサージュ論』からの引用。)

いま「数学だけが許されている」訳ではないにしろ、そういうものに従属せざるを得ない状況があるとしたら、きな臭い事たなと思うのだった。