さっそく「日本語が亡びるとき」を読んでみる

面白い。読みながら(まだ途中までしか読んでいないけれども)、エッセイや論文で山カッコ<>が使われている場合に、それは書き言葉に対する意識か現象学的還元のあらわれで、どんな本でも出てくる訳ではないんだな、という事に、今さら気付く(というくらい、ここ何年か現代の日本語で書かれた文学作品を読む為の心理的な余裕がなかった)。
17日の日記に書いたような、共同性を支えるための母国語(「日本語が亡びるとき」では「母語」と表記される)という話は、ベネディクト アンダーソンの「想像の共同体」にふれるかたちで出てくる。
私が書いた稚拙なおさらいのようなかたちではなく、色々な場で実際に外国の方と関わった実感として書かれている。
稚拙なおさらいで言うと(パクりの問題も含めて)「近代小説においてはパロディとして機能していた意識が、それ以降の文学においてはパスティーシュ(模倣)に過ぎなくなる」というのがあり、それより更に時間が過ぎて、本の物質性を支えていた緊張がほとびると、多分本は内情の安定しない転移性物質に過ぎなくなるのだ。
ある本の著者が自分の発想を絡めとっている、というのは、統合失調症の一級症状だが(そして、DSMを濫用するような人は大抵ユングフロイトも読まない)、それ以上になにかが枯渇したあとも「飛ばさないといけない」ひとたちが偽悪的に取る姿勢なり方法が作用しているかも知れず、日本語(どころか、言表行為)を亡びさせる外因は普遍語としての英語とインターネットでなく、たぶんそういう偽悪と転移性感情の機能でもあるのだ。