JAPANTEX

インテリアの展示会に。すごく見ごたえがあり、知人に渡すためカタログを確保する。 ♪
日本語が亡びるとき」をおおかた読み終える。
同調や転移の対象としての夏目漱石(や、福澤諭吉)というのが、私にはない感覚なので、近代文学に対する強い愛着で文学世界を立ち上げる事が出来ることに対する素朴な憧れと、『でも国語が英語と科学知に対して周辺化される事と、ものが書かれる事特有の亡びの感覚はやっぱり違うのでは』という感情が最後までつきまとう。
漱石のある意味神経症的な主体とか、Noblesse oblige
転移の対象にならない(わからない)のに対して、周辺化された「景色」はよく解る気がするのだ。坊ちゃんの清とか、夢十夜の茫漠とした感じとか、倫敦塔の幻覚とか。

「およそ世の中に何が苦しいと云って所在のないほどの苦しみはない。意識の内容に変化のないほどの苦しみはない。使える身体は目に見えぬ縄で縛られて動きのとれぬほどの苦しみはない。生きるというは活動しているという事であるに、生きながらこの活動を抑えらるるのは生という意味を奪われたると同じ事で、その奪われたを自覚するだけが死よりも一層の苦痛である。この壁の周囲をかくまでに塗抹した人々は皆この死よりも辛い苦痛を甞めたのである。忍ばるる限り堪えらるる限りはこの苦痛と戦った末、いても起ってもたまらなくなった時、始めて釘の折や鋭どき爪を利用して無事の内に仕事を求め、太平の裏に不平を洩らし、平地の上に波瀾を画いたものであろう。」(夏目漱石「倫敦塔」)だって。

 お金があんまりなく、英語は検定で準2級の能力しかない状態で(17歳だった)、イギリスに一日だけ旅行する
機会があった。できるだけ色々見たいと思って、特にウルフの小説に出てきたのでコヴェント・ガーデンには
行ってみたくて、「すごいあがいた」ことを覚えている。(ちなみに去年のウィーン旅行のとき、私の英語能力
は半減してしまっていて、トランジットに失敗してヒースロー空港に一晩寝転がっていたのだった。あとで
芸能人は経費で海外旅行に行けていいなぁ、と、素朴にうらやましかった。)